[松岡弓子さん]声を失った父・談志

05/01 (金) 07:10更新


 

徹夜の介護、家族・友人団結

 落語家の立川談志さんは昨年11月、75歳で亡くなりました。型破りな生き方だった談志さん。

 最期を支えたのは、長女の松岡弓子さん(48)ら家族と友人でした。「みなで団結し、介護しました。かけがえのない時間を父はくれました」。弓子さんはそう振り返ります。

喉頭がん

 父が食道がんを公表したのは1997年。手術をし、仕事を続けましたが、病は進んでいました。やがて喉頭がんがわかり、放射線治療を受けました。糖尿病も患って休養……。2010年春の復帰会見で落語を披露したのは、パパらしかったな。でも、声はかすれていました。

 すでにその頃、父は高座のたびに「これが最後」と言っている状況でした。息をするのも苦しく、食べ物もろくに食べられなかったはず。でも、そこは談志。しゃべることにこだわり、ぎりぎりまで我慢していたのでしょう。

 昨年3月6日が、最後の高座になりました。

  談志さんは、参議院議員になったり、落語協会を脱退して立川流を創設したり。常に世間の注目を集めてきた。がん手術後の会見でたばこを吸って話題になったことも。一方で家族思いの人だった。弓子さんは周囲から、そんな父親に似ていると言われ「女談志」と呼ばれていた。談志さんも「弓子は俺に似て何でもすぐ食いつく、そそっかしい」と笑っていたという。

 父は昨年3月21日、呼吸が苦しくなって緊急入院。主治医の勧めで気管切開しました。父も「オレらしくていいよ」と承諾し、手術後は久々にゆっくり息が吸えている感じが、そばで見ていてもわかりました。でも、声が出なくなり、父は、もうしゃべれないのかとずっと気にしていました。主治医からは余命3か月くらいと聞きました。

 家に帰りたがる父。よし、じゃあ、願いを受け入れましょう、と。でも、在宅で介護なんてそれまで考えてみたこともなくって。慌てて、ケアマネジャーとは何か調べ、たんの吸引法も覚えました。退院は4月18日。医師に週1回、看護師に週3回訪問してもらい、身の回りの世話は、家族と友人だけですることに決めました。

 要介護度は5。1日24時間、1秒たりとも1人にできませんでした。母が常に付き添いましたが、それ以外に、私と弟の慎太郎、私の友人の3人でローテーションを作りました。昼間世話をするのは私。泊まり込みは、月・水・金曜が友人で、火・木・日曜が弟。土曜が私の担当でした。

  おなかの外から胃に開けた胃ろうの穴を通じて管で1日3回栄養補給し、薬を飲ませ、たんを吸引し、体を抱えてトイレに付き添い、おむつを替え、夜中に呼ばれる毎日だった。

 介護のピークは夏の盛りだったから、もう大変。汗びっしょりで、パジャマやシーツを替えました。体の向き一つ変えるのもひと苦労で、腰痛で動けなくなったりしました。

八つ当たりなく

 父は起きているときは座いすで読書をしたり、映画のDVDを見たり。〈パパ、まだ落語したい?〉〈したい!〉。会話はずっと筆談でした。だだっ子のようなことを言い出したり、にっこり笑ったり、その時間は貴重でした。自分勝手な人生を送ってきた父でしたが、介護の間は八つ当たりもなかった。けれども、字は、日に日に読みづらく、ミミズのような字になっていきました。

 父は昼寝て夜寝ないので、必ず誰かが徹夜。発熱するし、壁に飛ぶほど血を吐いたこともありました。「いいかげんに寝てよ」と思ったものです。救急車で何度も病院に運ばれましたが、救急車を降りた瞬間には、家に帰ると本人は訴えるのです。

延命措置

  9月12日、最後の入院。家族は毎日病院に通い、弓子さんと慎太郎さんが交代で泊まり込んだ。10月27日に容体が急変。一度心臓が止まったが蘇生し、人工呼吸器で生きながらえる状態になった。11月21日、死去。

 意識を失った最後の3週間は何だったんでしょう。でも、単純にそこに父がいてくれて、触ればあったかい。生きてくれてるんだなあと思いました。

 死に顔はきれいでした。

 父は以前、「死にたい、死にたい」とよく口にしていたので、延命措置は意思に反すると思ってましたが、最終的には、胃ろう、人工呼吸器と延命のフルコースになってしまいました。こればかりは、その時の状況で判断は違うし、一概に言えない、難しいことだと思います。

 けれど、父が時間をかけて死にゆくさまを見せてくれたことに、今、感謝しています。家族が明るく、めそめそしないで生きていられるのは、父ががんばってくれた時間のおかげです。よけい好きになったし、尊敬できました。

 パパ、偉かったね、と言ってあげたいです。(聞き手・京極理恵)

 ◇まつおか・ゆみこ 1963年、東京都生まれ。立川談志さんの長女。東京・銀座でクラブ「Tee Off」を経営。談志さんを介護した8か月間の日記「ザッツ・ア・プレンティー」(亜紀書房)を昨年末に出版。

 ◎取材を終えて 談志さんは闘病中も、詳細な病状は世間に伏せたまま、週刊誌の連載執筆を続けていた。その中で、弓子さんを「文句のない親孝行である」と書いた。弓子さんは、父がこんなにつらいのを助けてあげられないのに、と泣いてしまったという。弓子さん自身も婦人科系のがんを患い、通院治療を続けながらの日々だった。介護者も倒れかねない大変な時間を支えたのは、互いに相手を思いやる心だったのだろう。

*2012年8月19日

ヨミドクター = 文