[大場久美子さん]84歳父 大みそかに旅立つ
息引き取る瞬間 自宅で
女優の大場久美子さん(58)は2015年の大みそかに父の宣夫(のぶお)さんを自宅で看取りました。84歳でした。がんの転移が見つかってから約1か月半の在宅での介護生活は、「希望があればかなえてあげたいという一心だった」と振り返ります。
前立腺がんで15年以上治療を続けてきた父が余命半年だと主治医から聞いたのは、15年10月。治療の傍ら、私と一緒にファンクラブとの旅行に出かけたり、80歳を過ぎてもボウリングでストライクを出したりと、元気に過ごしていましたが、検査で肝臓への転移が見つかったのです。おなかに水もたまっていました。
父は埼玉の実家で暮らしていました。足も少し弱っていたので不安が募ったのでしょう。通院先の大学病院が私の自宅に近いこともあり、「うちに来る?」と聞くと、「行きたい」と言いました。
長く膠原こうげん病を患っていた母が61歳で亡くなった時は仕事に追われ、そばにいてあげられませんでした。同じ後悔はしたくないと、仕事の合間を縫って部屋を片づけ、介護ベッドを入れるなど3日で準備しました。
《大場さんは子どもの頃から、テレビに映る芸能人の歌や振りをまねることが好きだった。13歳で劇団に入り、芸能事務所に所属するまで、鋳物卸業を営む宣夫さんがマネジャー代わりとなって応援してくれた》
父は照れ屋で、普段から優しい声をかけてくれるわけではありませんでした。でも、アイドル時代の多忙な私に「仕事がつらくなったら、いつでも帰っておいで」と手紙をくれたこともあります。
一方で、昔ながらの亭主関白で、厳格なタイプでした。そんな父に心地よく暮らしてもらうために、「いつも家に誰かがいる状況を作る」と決意。ヘルパーはほぼ自費で多い日は7人に交代で来てもらい、週1回は往診も受けました。夜の介護は、私と夫で担いました。
夜、父が「起きて用を足したい」と言うので、体を抱えて簡易トイレに移していました。枕元に置いていた呼び出し用のベルは一晩で3回は鳴るので、私は部屋の前の廊下で仮眠していました。
でも、仕事のペースは変えませんでした。睡眠時間を削ることには長い芸能生活で慣れていたし、むしろ仕事場にいる時に心や体を休められた気がします。
夫も仕事を終えてからの介護は大変だったでしょうが、着替えを手伝う時には「腰を上げていただいてありがとうございます」と、父に敬意を持って接してくれました。
《介護中、宣夫さんの喜ぶ顔を見たい一心で、思いつく限りのことをしたという》
好きな演歌を聴かせたり、ヘルパーさんと交代で体をマッサージしたり。「散歩を楽しませたい」と福祉用具の事業所から電動車いすを借りたことも。ドライブが趣味の父は、普段は私が車いすを押して通るつづら折りの長い坂をレバーを器用に操作して上るなど、喜んでくれました。
出身地の北海道の塩辛や季節外れのスイカなど、父が「食べたい」と言ったものは3日以内に取り寄せ、小皿に載せて出しました。ほんの一口でしたが、「懐かしいなあ」と目を細めて食べていました。
《介護を始めて約1か月後、ご飯を全く食べられなくなった。主治医と相談して入院し、腹水を抜く処置を受けた。大場さんは病室に寝泊まりしながら仕事に通った》
午前中に腹水を抜いても、午後にはまたたまりました。「年明けまでもつかどうか」と告げられましたが、主治医と相談して本人には伝えず、年の瀬も迫った12月26日に退院しました。
退院後、父は日に日に弱っていきました。話すこともできなくなった父に添い寝をして手を握っていました。
「息を引き取る瞬間を家で見届けよう」と覚悟していたのに、亡くなる前日、身動きがとれない父を前にどうしていいのかわからなくなり、救急車を呼ぼうかという考えが頭をよぎりました。知人の医師にLINE(ライン)で相談すると、「いつでも連絡のつく医者がここにいるので、もう少し自宅で見守りませんか」と返してくれた。それで何とか落ち着きを取り戻せました。
「パパの好きな紅白で演歌が聴けるね」。そう語りかけていた大みそかの早朝、父は旅立ちました。
在宅での看取りは悩むことが山ほどありました。医療・介護職の知恵や支えがなかったらやり通せなかった、と思います。(聞き手・辻阪光平)
◇おおば・くみこ 1960年、埼玉県生まれ。73年に劇団に入り子役として活動。17歳で歌手デビュー。78年に主演したテレビドラマ「コメットさん」で人気を得る。現在は心理カウンセラーや認知行動療法士の資格を取得し、講演やカウンセリングにも取り組む。
◎取材を終えて宣夫さんの前立腺がんがわかった頃、大場さん自身も突然の発作に繰り返し襲われるパニック障害を発症し、克服するまでに8年近くかかったという。周りの人から「大丈夫?」と過剰に心配され、余計につらくなった経験を踏まえ、父親に対しては声のトーンも言葉のテンポも最後まで変えないように心がけたそうだ。自らの心と向き合った闘病体験が、寝る間も惜しんだ献身的な介護につながったのだろう。
*2018年11月21日 掲載*