[香山リカさん]実家で父は「良い最期」
小樽―東京の遠距離介護
精神科医の香山リカさん(50)は昨年11月、82歳の父を亡くしました。東京と北海道を行き来する遠距離介護を続け、死の直前には入院先ではなく実家で看取(みと)る道を選びました。「別れは寂しいけれど、良い最期を迎えられたと思う」と話しています。
北海道小樽市で産婦人科医をしていた父は、引退後も医院のあった自宅で母(78)と暮らしていました。介護が必要になったのは1年半ほど前からです。変形性股関節症でつえが必要になり、昨年夏ごろから車いす生活になりました。慢性腎不全もありました。
認知症の症状はなく、通所リハビリや訪問リハビリを利用しながら、身の回りの世話は母がしていました。私は月に2、3回、仕事の合間を縫って帰郷し、札幌に住む弟とともに、両親の話し相手になったりしました。治療方針について主治医と相談したりするのは主に私の役割でした。
実は、東京に両親を呼び寄せる計画もあり、部屋も確保していました。穏やかな性格の父は「そこまで言ってくれるなら」と応じてくれましたが、歩行困難になったことで延び延びになっていました。
香山さんの父が入院することになったのは昨年10月。持病の治療で手術するためだった。しかし、手術は成功したものの、慢性腎不全が悪化するなどして退院できなくなった。
本当の気持ち
初めは、そのうち退院できるだろうと思っていました。小樽に戻る回数を週2回程度に増やし、「退院したら東京の病院で治療を受けてみては」と提案したりしました。父も「そうできたらいいね」と話していましたが、最新の治療を受けてもらいたいと思うあまり、本当の気持ちを推し量る余裕がなかったかもしれません。
仕事が忙しくてそう頻繁に帰れないことにストレスがたまりました。帰れても夜に到着して翌朝には戻る生活です。東京には私を待っている患者さんもいますし、以前から決まっている講演などを直前にキャンセルするのは難しかったからです。
「帰れなくてごめんなさい」と母に謝ったことがあります。母は「東京に戻ったらお父さんのことは忘れて、自分の仕事を大切にして」と言ってくれたので、気が楽になりました。
でも、「父が病院で弱っているのに、私は何をしているんだろう」と、ふと思ってしまったり。気持ちを切り替えるといっても、実際は難しいものだと実感しました。
入院から約1か月後の昨年11月7日、香山さんは父の状態が良くないという連絡を受け、講演先の大阪から、急きょ小樽へ戻った。
日常の中で
不思議な巡り合わせですが、その日は遠距離介護をテーマにした講演をしていました。講演を終えて、夕方の飛行機に飛び乗りました。
病院に到着すると父の意識はほとんどなく、これは厳しいなと覚悟しました。解熱剤のほか血圧を上げるためなどの様々な薬が投与されていました。しかし、回復の見込みはない。そんな父の姿を見ていて、「このまま病院にいて意味があるのだろうか」という思いが頭をもたげてきました。
父は意識があった頃、「家に帰りたい」とよく話していて、母も「帰れるのならそうしてあげて」と言います。私は「家で看取ろう」と腹を据えました。主治医も理解してくれました。
朝、家に帰った父は愛用のベッドに寝かされました。薬の投与はなく酸素吸入だけです。「帰ってきたよ」と母が手を握ると、意識がないのに涙を流す父。苦しむこともなく穏やかに流れる時間を家族で共有しました。母はいつものように夕飯の準備を始めます。そんな日常の営みの中で、父は静かに呼吸を止めました。私が戻って3日目の夜でした。
香山さんの母は、小樽で独り暮らしをしている。東京に呼び寄せるかどうか結論は出ていないという。
母はまだ元気ですし、地元でのつながりをたち切ってまで私の近くに住むことが良いとは限りません。家族のコミュニケーションを絶やさず皆で考えていこうと思います。
今回の経験を通じて感じたのは、介護やその先に迎えるであろう死別の形は人それぞれだということです。父を家で看取った母ですが、「迷惑をかけたくないから、私は病院かな」と話したりもします。
最近は、介護に疲れた方から相談を受けることも多いのですが、「まずは自分を大切にしてください」と話しています。在宅か施設か、同居か遠距離か――。悩むことばかりですが、介護する側の子どもが自立して、しっかり生きていることが第一歩になると思うのです。
◇かやま・りか 精神科医。1960年、札幌市生まれ。東京医科大卒。著書に「ぷちナショナリズム症候群」(中公新書ラクレ)、「いまどきの『常識』」(岩波新書)、「老後がこわい」(講談社現代新書)など。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍。2008年から立教大現代心理学部教授。
◎取材を終えて 看取りの際、死亡確認をしたのは医師である香山さんだった。呼吸や脈、瞳孔などを確認した。悲しみの中、弟さんが医療をテーマにしたテレビドラマに例えて「ERみたいだ」と冗談を言い、家族で笑い合ったそうだ。きっと明るく笑いの絶えない家族だったのだろう。「悲しかったけれど、父をきちんと送り出せた満足感があった」という香山さんの言葉から、家族の強い絆を感じた。(赤池泰斗)
*2011年02月13日 掲載*