私の看取り体験談 ~ 看取った家族の物語り ~ Last Shirahama Trip and Sushi
Stories of each family
家族が語る「それぞれの最期」
「私の看取り体験談」 ~ 家族が語る 最期の物語り ~

「私の看取り体験談」 ~ 家族が語る 最期の物語り ~

Last Shirahama Trip and Sushi
看取った方
看取り体験者 (女性)
みお さん (女性)
34歳 主婦 愛知県
看取られた方
mother
享年 72歳
主な疾患 多系統萎縮症
闘病期間 9年 0ヶ月
最期を迎えた場所 病院

どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか

私が23歳の頃、母が多系統萎縮症と診断されました。原因は解明されておらず治療は望めませんでした。処方された薬も効き目はなく、進行スピードは想像しているより早く恐ろしかったです。


あっという間に歩けなくなり、ご飯が喉を通らなくなってしまいました。栄養を取り入れるため病院では栄養ドリンクを処方してもらいましたが母にはあわず、お腹を下してしまうのです。排泄障害も出ておりトイレに行きたい感覚をコントロールできなかったためお腹を下してしまうことはとても嫌がっていました。しかもトイレまで這っていくのでいつも足は痣だらけです。


何をやってもいい方向には転ばず、何度も母が布団で一人で声を殺しながら泣いているところを目撃したときは私も泣くしかなかったです。


当時60代半ばの母にとって車いすに紙パンツは恥ずかしく外には出ず、紙パンツは拒否していました。このころは同居していなかったので母の家まで通っていました。私は子供が生まれたばかりで週に1~3日通っていたのですがこの生活ができたのは当時のケアマネージャーさんと主人のおかげです。


周りの助けがあって成立していた介護と子育てですが、やはり限界はありました。エアコンをつけないので熱中症になったことや、水分を摂ることができず脱水症状になったこともあります。姿勢を制御できないので急に倒れてしまい頭を縫うケガをしたこともあったり、いよいよ1人で暮らすのは無理ではないかという結論になり同居を開始しました。


母が私にご飯のお世話をされることや、排泄の処理をされることを非常に嫌がり、動けない体を何とか動かし一人で紙パンツを変えていることもありました。時には便を我慢して体調を悪化させてしまうこともあったので、母の場合は看護師さんによる摘便と薬で調整し解決していただきました。水分補給や排泄処理は看護師さんやヘルパーさんのお世話になることが多かったです。


一日置きにデイサービスと訪問看護を入れて夜は毎日ヘルパーさんがいらっしゃいました。月に1回は訪問診療の先生がいらっしゃるので毎日朝から夜までたくさんの人が入れ替わり家を訪れていました。各事業所が連携を取ってシフトを組むように協力してくれていましたが、私としては常に他人が家に居るというのは正直苦痛でした。しかしそれ以外に母の要望に応える方法が見つからなかったのです。


ここまで症状が進行してくると課題になるのが栄養補給の問題です。誤嚥の心配があり胃ろうの提案がありました。我が家では胃ろうはしないという結論がでましたが実際母がどのように思っていたかはわかりません。すでにコミュニケーションはほとんど取れていなかったからです。


私と母は会話ができない苛立ちで常に険悪でしたが周りの方々のおかげでなんとか生活をしていました。それでも病の進行が止まることはなく常に血圧が低くボーっとしていることが増えました。水分が思うように摂れないせいか、尿も出が悪くなり何度も膀胱炎になりバルーンカテーテルを導入しました。もちろん何かが好転することはありません。


ある日私と主人と子供が感染病にかかり母の介護どころではなくなりました。急遽、施設を利用させていただきましたが、その日の晩に母は熱を出し救急搬送されてしまいます。4日程経ち、私たちも回復してきたころ病院から「安定している」と連絡をいただきほっとしました。


「あと10日程で退院できるかな?」と思っていた矢先、夜中に電話が鳴りました。「脈が弱まっています」とのことでした。混乱しましたが、自宅待機だった私たちは病院にいけません。ただ連絡が来るのを待ちました。しかし、そのまま母は家に帰ってくることはできませんでした。


自宅で私が最期を見届けるものだと思っていたのに…ずっと施設や病院に行くことを嫌がっていた母に最期を病院で過ごさせてしまったことが悔やまれました。脈が弱くなっているという言葉を思い出し、母は生きる気力が無くなってしまっていたのではと、もう全てを諦めてしまったのではと思いました。


家に帰ってきた母はもう何も言ってくれません。私を責める母が頭から離れることは今後もないでしょう。後悔しか残らない介護生活はこうして終わりました。 

ご本人はどんな方でしたか What kind of person was he

猫が好きな人でテレビではいつも動物番組ばかり見ていました。近所に捨て猫がいると買いものの途中に観察しに行っては見かけなくなるといつも悲しそうにしていたことが印象に残っています。


私が20歳の時には家の前で衰弱していた子猫がおりました。「飼ってしまうと別れがつらいから」と言って頑なに飼おうとしなかったのですが、この時ばかりは我慢できず迎え入れることを決意し、それから14年経ちました。その時の子猫は母の介護を最後まで見守ってくれて、母が亡くなった今でも我が家で元気に過ごしております。

病気はどんな経過を辿りましたか How did the disease progress

最初は手のしびれと腰のふらつきです。違和感があると言っていましたが病院に行かずそのまま生活していると転ぶことが増えました。そのうち上手くしゃべれないと言い、車の運転ができなくなり歩くにも歩行器が必要になりました。ようやく病院へ行く気になり、そこで初めて難病に侵されていると知りました。


それからすぐ自分の足では歩けないようになってしまい車いすが必要となりました。外に出るのが億劫になってしまったので家の中で過ごす時間が増え、言葉を話す機会も少なくなり喋るのも難しくなっていくようでした。


夜眠っていると急に叫びだしてしまうこともよくありました。3年経たないうちに日常生活で必要な動作はほとんどできなくなっていたかと思います。じわじわとゆっくり確実に体を蝕んでいくのがよく分かりとても恐ろしい病気だと思いました。


家の中ではトイレに行くことが難しく這って移動をしていました。時にはトイレに間に合わない時もあります。訪問看護師さんに来ていただくようになり拒否していた紙パンツを着用してくれるようになったのはありがたいことでした。


嚥下機能も低下し水を飲むことにも注意が必要でした。病気がわかって6年ほど経ち、このころはさらに病の進行スピードは速くなっていたように思います。もう会話はできませんでした。常に淡が絡み水分はとれず体を動かすこともできないのでいつも褥瘡で悩んでいました。


血圧は低い日ばかりで、水分不足で尿がでず病気による痛みなどはないものの、何もできない、何も伝えられないことでいつも苦しそうでした。そして最後は肺炎で熱が出たため向かった病院で亡くなりました。

やってよかったこと What are you glad you did?

ケアマネージャーさんに思ったことはすべて伝えました。そしてたくさんの方に手伝ってもらいました。訪問診療と訪問看護、デイサービスにヘルパーさん。時にはショートステイも利用しました。


母は誰かが来ることや施設に行くことをとても嫌がったため頻繁に利用できないものもありましたがたくさんの人に我が家の事情を知ってもらえているだけで安心できます。


また当たり前のことかもしれませんが、介護用具は積極的に利用しました。例えばコップは「安いものでいいのでは?」と思い最初は100円ショップに売っているものを使いましたが、うまく動かないからだでは飲むことも難しいためぶつけたり落としたりとすぐ壊れてしまい逆に高くついてしまうことが多くの場面でありました。


現実的に介護はお金がかかります。利用できる助成や給付は必ず利用するべきです。そして日常生活で使用するものは金額ではなく利用者の動きにあわせたものを見つけることができたのはとてもよかったです。

もっとこうすればよかった Things I'm glad I did

病気が分かった時から本人とたくさん向き合うべきでした。当たり前のことですが病気を受け入れることができる人は居ないと思います。私の母も同じでした。


診察の日はいつも先生に「治る方法は?良くなる薬は?結局どんな病気なの?」と聞いていました。その姿を見るとこれからのことを向き合って話合うことが億劫でした。しかし、病状が進むにつれ母は構音障害のためコミュニケーションはどんどん取れなくなっていきました。そうすると向き合うことはさらに難しくなり私は逃げるばかりでした。


看護師さんが50音ボードを作ってくれたのですが上手く使えないからと使わないまま季節は進み、発病から7~8年経った頃「意思伝達装置」というツールを知りました。なぜそんな便利なものがあることを知らなかったのか、そもそも50音ボードももっと手が動くときに練習させれば今もっとコミュニケーションが楽だったのではないかと強く思ったのです。


コミュニケーション以外にも、生活のことやお金のこと亡くなった時のことと向き合う必要はあったのに私はその現実から目を背けたのです。その結果、何もわからないまま母は亡くなりました。逃げて良いことは何もありません。後悔が残るばかりです。

もっとこうだったらいいのに I wish it was more like this

先日、多系統萎縮症に対する新たな治療法を発見したという報道を目にしました。詳細はわからないのですが、目に止まったのは「有効性が高く評価された」という一文です。


医学の進歩は大変素晴らしいことですが、私にとっては何故今…?というのが率直な感想です。本当に進行の早い病気ですので少しでも遅らせることができたら…という気持ちはいつもありました。原因がわかれば、薬があればと母はずっと言っていました。私も同じ気持ちです。


もっと早かったら良かったのにとこの報道を見て思いましたが、効果のある薬ができてせめて今後同じ病気になった方々の病気に向き合う時間が増えてくれることを願うばかりです。

この先 家族を看取る方へ伝えたい事 What I would like to convey to those who will be caring for their families

私は母との闘病生活の中で正解だったと思えることを何もできませんでした。病気をした本人は情緒が安定せず、意に反して怒鳴り声をあげることもあります。突然泣き出してしまうこともありました。何に困っているのかも分からなくなっていき、ずっと闇の中にいるようでした。これは我が家に限ったことでは無いと思います。


今、介護をしている方々も多くのことに頭を悩ませて、こうしたほうがいいのかな?これはだめかな?と試行錯誤の毎日だと思います。我が家も行動に移した結果、あまり良くない方向へ進んでしまうこともたくさんありました。しかし介護を終えて思ったことは、行動してもしなくても後悔ばかりです。


行動して「やらなければよかった」と思ったことも何度もありましたがやはり「やっておけばよかった」はずっとついて回ると思います。


亡くなってから2年が経とうとしていますがふとした瞬間、いろいろなことを思い出してしまいます。今後も介護中の後悔はずっと頭の片隅から消えることはないのだなと思っています。だからこそ、これから家族を看取る方に伝えたいのはありきたりな言葉ですが誰かに相談すること。そして思いついたことは行動すること。これに尽きると思います。そのためには相談できる人を見つけることが大事です。私にとってそれは担当のケアマネージャーさんでした。


介護をする家族とケアマネージャーさんの相性はとても重要と考えていた私はいろいろなところに電話をかけて信頼できる方を見つけました。そして母のことだけではなく自分自身の生活のことも相談しました。


子育てと介護の両立をするには、自分の考えだけでは空回りするばかりでしたが、相談することで多くの選択肢を与えてもらえました。そこから行動することもたくさんありました。しかし何もかも相談できたわけではありません。「こんなこと相談してもな…」と遠慮して言わないこともありました。しかし今考えれば言うだけ言ってもよかったのでは?と思っています。言わなかったことが今の後悔に繋がっている気がするからです。


後悔が無い介護はないと思います。相談と行動によって「あのときやっておけば…」を少しでも減らすことができるのであれば、それはとても素晴らしいことだと思います。 

旅立ったご本人へのメッセージ A message to the person who has departed

まずはごめんなさい。私はいつも苛立っていました。初めての子育ての中、頼りにしていたお母さんがどんどん私の知っているお母さんでは無くなりずっと戸惑っていました。言葉が話せなくなって歩けなくなりトイレも難しくなって正直見ていたくなかったです。


逃げ出したかったし、なんで病気になったの?と言いたかった。でも、お母さんが1番辛くて怖かったことは分かっていたから何も言えないし何もできませんでした。せめて施設ではなく一緒に住むことを決めたけどお互い辛いだけだった気がします。


なにが正解だったのかな?未だにわかりません。病気になったことや介護のことは忘れてまた、元気に車を運転するお母さんに会いたいです。