私の看取り体験談 ~ 看取った家族の物語り ~ Last Shirahama Trip and Sushi
Stories of each family
家族が語る「それぞれの最期」
最初で最後の古希祝いと懐石料理

最初で最後の古希祝いと懐石料理

Last Shirahama Trip and Sushi
看取った方
看取り体験者 (男性)
ガマガエルまき さん (男性)
57歳 無職 長崎県大村市
看取られた方
実父
own father
享年 70歳
主な疾患 肝細胞がん
闘病期間 30年 0ヶ月
最期を迎えた場所 病院

どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか

2007年の秋頃、母から連絡があり、主治医からの呼出で、近くに住んでいる御家族の方へ父の病状と今後の治療方針についての説明があると聞き、母・姉と3人で、約束の時間に主治医とお会いしました。


現在【肝臓】は重篤な状況で、これ迄の延命治療は、今後はできない事。胃に【癌】が見つかっていますが、その手術に耐えるだけの体力は無いと判断しており、その治療を施しても、お父さんの肝臓は保たないとの説明でした。


お父さんは来春の『桜』は見れないと思いますので、食べたいと言う物は何でも食べさせて、また、旅行に行きたいと言うならば、出来るだけ希望を叶えてあげて下さいとのお話でした。


遡ること2008年3月のとある朝、父が見を覚ますと、あまり弱音を吐かない父が母に『体調が悪い』と言ったそうです。


『全身黄疸』が出ている父の顔色を見た母は、急いで身支度を整え、タクシーを呼び、独立行政法人国立病院機構長崎医療センターに連れて行きました。


外来の看護師長が父の『病変』に、○○さんどうしたの〜と、慌てて病棟に連絡して、その後、緊急入院となりました。


連絡を受けた私は、仕事終わりに病院に向かい、病室に入ると四人部屋の左手前のベットの上に座っている父の顔を見ると直ぐに黄疸が出ていることに気付く程、全身真黄色でした。


その日以降は、時間の許す限りお見舞いに行き、週末は朝から夕方まで病室に詰めていました。


ある日の夕食のメニューで『大きなミートボール』が出て、食べにくそうだったので、小さく一口大にすると、父から親子であっても、誰かの手を借りてまで【飯】は食べたくないと、叱られたことを今でも覚えています。


その数日後から意識が無くなり、2〜3日は寝たきり状態になっていました。


4月に入り、意識ははっきりしていて、会話も出来ていましたし、食事も自分で食べていました。その後、2週間を過ぎようとした日から『食べる量』が減り、ベットに寝る時間も長くなっていました。それから亡くなる2〜3日は意識もなく、寝たきりの状態でした。


2008年4月26日、別れは突然やって来ました。


その日は、母・叔母・従兄・姉・弟家族、私の家族と朝から父のお見舞いに来ており、正午を知らせる音楽が流れたので、病院内の食堂に行こうとした、12時05分、大きく深呼吸をしたあと、息を引き取りました。

ご本人はどんな方でしたか What kind of person was he

父は私にとってとても怖い存在でした。


父が若い頃は、怖いもの知らずで、誰とでも『喧嘩』。よく母とも揉めていまし た。


生真面目で曲ったことが嫌いな父でしたが、その反面、子供にはとても優しい一面があり、私がサッカーをしたいと言えば、サッカースパイクを買 って、クラブへ入部させたり、試合にもこっそり応援に来たりしていました。


子供にプレッシャーを与えないような配慮があったんだと思います。


運動会等、『行事』には、必ず欠かさず応援。その際、行きつけの店に注文した寿司と母手作りのおかずを三段重で持って来て応援してくれるような心優しい父でした。

病気はどんな経過を辿りましたか How did the disease progress

我が家は子供6人の8人家族。大家族を養うために、長崎県から遠く離れた千葉県船橋市の造船所に単身赴任して、溶接工として働いていました。


ある日の仕事中、クレーンで吊り上げられた鉄骨が落下、不運にも父が下敷きになり腰の骨を骨折、長崎に戻り手術。


その際の輸血で【血清肝炎】になり、生死の境を彷徨ったそうです。数ヶ月の入院後、独立行政法人国立病院機構長崎医療センターに転院。


肝臓病の権威ある主治医と出会い、入退院を繰り返しながらも治療を繰り返し行いましたが、【肝硬変】へと病状が悪化して行き、その度に足の付け根からカテーテルを肝臓の病変部分迄入れてエタノールを注入して、患部を死滅させる治療を行いました。


しかし、その治療にも限界があります。


肝硬変に病変すると、一般的にはそう永く生きられないと言われていた時代でしたので、転院してから20数年も『生きられた』のは、3人の主治医の高度な治療のお陰であったことは言うまでもありませんし、遺族一同『感謝』の気持ちです。

やってよかったこと What are you glad you did?

父がなくなったのは、2008年4月。70歳【古希】でした。


亡くなる2ヶ月前の2月に誕生日を迎えていましたので、家族で相談して、盛大に【古希祝】を計画することで話は纏まりました。


場所は、地元でもそこそこ有名なホテルの和食処。時間は父の身体の負担を軽減するために、お昼にしました。


当日は近くに住んでいる家族親族は勿論、関東に住んでいる兄弟も集まり、父が可愛がっていた孫たちも合わせると総勢30数名。食事内容は、事前に総料理長に相談して、父の好物を中心に『懐石料理』をお願いしました。


当日は私が開会の挨拶、その後父からの感謝の言葉で祝宴が始まりました。


お腹が空いてたのと、久しぶりの再開の者同士、父との何気ない会話も、父の口数は少なく、相当体調が優れなかったのに主役が不参加では父の『義理と人情』の精神に反するので、相当無理をして参加したのだろうと当時のことが思い出されます。


しかし、『古希』は人生に一度きり。家族親族が集まり、そのお祝いを出来たことは、今でも良き思い出として、記憶に残っています。

もっとこうすればよかった Things I'm glad I did

休みの日を利用して、車で行ける距離にある名所や美味しいと評判の食事には出来る限り連れて行っていましたが、父は、死ぬ前に一度でいいから、日本で1番高い山『富士山』に登り、1番高い頂きから日の出を見たいと言うのが口癖でした。


当時の私は仕事が忙しく、『旅行』にも連れて行けない状況でした。『思いたったら吉日』と言う言葉がありますが、あの時、思い切って父の願いを叶えてあげていたら・・・。それだけが心残りです。

もっとこうだったらいいのに I wish it was more like this

『出逢い』→『別れ』この法則は変えようが無い事実です。そして別れをしたくないので出逢いを避けることも現実出来ません。


子供は親との別れをしたくて産まれてくるのではなく、その選択が無いだけです。勿論、親も子供との別れを望んでいるわけでもありません。


人間には『喜怒哀楽』があります。非現実な考えとは思いますが、哀しみの体験を出来る限り少なくなったらいいのにと思います。

この先 家族を看取る方へ伝えたい事 What I would like to convey to those who will be caring for their families

親子関係がある以上、宿命として親との永久の別れは、誰しもが一度は経験します。また、『冠婚葬祭』喜びごとは事前に日取りが決められ、それに合わせることが出来ますが、『親との別れ』は、突然やって来ます。


事故・病気・老衰等、原因は様々ですが、必ず訪れる永久の別れは本当に精神的に辛く哀しいものです。


お通夜・葬儀・告別式・火葬→初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、四十九日と毎週法要があり、気持ちが哀しみで張り詰めていますが、その四十九日が過ぎると、精神的に疲労の限界が待ち受けています。


中には体調を壊してしまう方もいらっしゃるとお聞きします。くれぐれも、無理してでもよく食べて・よく寝ることを心掛けて戴きたく思います。

旅立ったご本人へのメッセージ A message to the person who has departed

父へ


祖父が亡くなった時、葬儀・告別式からの帰り道に、『俺が死んだ時は喪主挨拶はお前がやれっ』と言われ、その後の人生で、幾度となく葬儀に参列して、『喪主挨拶』をお聞きしました。


亡くなった方のことが時系列でわかりやすく話をされる方、泣き崩れて何をお話になりたいのかわからない方、その他・・・。『お父さん』の葬儀の喪主は母でしたが、『喪主挨拶』は、母になり変わり、約束通り私が御参列の皆様に心を込めて御挨拶しましたよ。