私の看取り体験談 ~ 看取った家族の物語り ~ Last Shirahama Trip and Sushi
Stories of each family
家族が語る「それぞれの最期」
『おとうさん会えたかな。お母さんに・・・』

『おとうさん会えたかな。お母さんに・・・』

Last Shirahama Trip and Sushi
看取った方
看取り体験者 (女性)
soyosoyo さん (女性)
54歳 専業主婦 鹿児島県
看取られた方
Step-father
享年 88歳
主な疾患 認知症/老衰
闘病期間 10年 0ヶ月
最期を迎えた場所 施設

どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか

2021年10月に義父を亡くしました。


朝、入所していた施設からの一本の電話。義父は、施設の自分の部屋で一人旅立っていました。「老衰」でした。


義父は、18年前に義母が他界し、以降10年余、自宅で独り暮らしをしていました。10年ほど前から認知症を患い、その後、自宅で倒れ救急搬送。その後は有料老人ホームに入所し5年近くを過ごしました。


認知症もみるみる進行し、面会に行っても息子のことも、可愛がってくれていた孫のことも認識できなくなり、歩行もままならなくなっていきました。


そうしているうちに『新型コロナウイルス』の流行もあり、面会も出来なくなり、義父の様子は、毎月届く施設からのお便りと職員の方からお電話で状況を聞くだけになりました。


面会ができない日々が過ぎていき...... 2021年4月施設でけいれんを起こし救急搬送され、その際、意識はなく血圧もどんどん下がっていきました。「朝までもつかどうか・・・」との診断でした。


元気な時、「万が一の時は、延命治療はしない」と言っていた義父本人の意向もありましたので、息子である主人は、「痛みのないお薬などの治療だけはしてください」とお願いをしました。


出来ることなら「可能な限りの治療をしてください」とお願いしたかったのですが、義父本人の意思を大切にした苦渋の決断でした。


翌日、お見舞いに行ってみると点滴治療が効果を成し、少し持ち直していました。そして、医師からの説明で誤嚥性肺炎を防ぐためにも、「胃ろう」をすすめられました。


しかし、徐々に回復していき胃ろうはつくらず退院に至り、また施設に戻ることができました。この時、『義父の強さ、生命力』を感じたことをよく覚えています。


ほっとしたのも束の間。また、一月ほどすぎたある日、「また、様子がおかしい」との連絡が入り救急搬送されました。すぐに駆けつける事が出来るのは、私ひとりで心細い思いで病院へと向かいました。


意識はあり、車椅子に乗っていました。しかし、義父に声を掛けても、やはり私のことは分からず・・・。


付き添ってくださっていた施設の方も、お忙しいようで施設に戻るとの事でしたが、私のことを認識できていない義父を、私ひとりですべてに付き添える自信は全くありませんでした。


情けない話ですが、義父にどう接していいか自信もなく施設の方に無理を言って残っていただきました。


医師からは、「高齢でもあり、できる治療はない」とのことでした。冷たさを感じてしまいました。


しかし、しばらく入院したのち、なんとか退院できまた施設へ戻ることとなりました。


三ヶ月ほど過ぎた9月。状態が悪くなっていますが、どうしますか?」と施設のクリニックの医師から連絡が入りました。施設からの連絡はいつも嫁である私に一番に入るため、救急搬送」をお願いしました。


主人とともに病院に駆けつけると目に入ってきたのは、意識のない義父。「大変、危険な状態」「胃ろうを作らなければ難しいと前回伝えたはず」と強い口調で医師から宣告を受けました。「それは違う...そうは言われていない...」と心の中で強い反発心がありました。


確かに、春に一度「胃ろう」の話が出たのは事実で記憶していましたが、「意識も戻り食事も摂れるようになったので、今回は胃ろうまで作らなくても...」と同じ医師からの説明があったからでした。


しかし、義父は、延命治療はしないとの意思だったこともあり、「胃ろうまでは作らない」とその時、はっきり伝えました。それでも義父の強さで意識を回復し何とか施設に戻れるまでなりましたが、その後は、寝たきりとなり数日を過ごしました。


クリニックの医師からの連絡が時々入り...「あと数日かもしれない」とのことでした。きっとまた持ち直してくれると信じていたので、耳を疑いました。


その数日後の朝、主人が出張先へと新幹線で向かっている時に電話が鳴り、「朝、ベッドで亡くなっていた」との施設からの連絡でした。


一人で旅立ってしまいました。


ご本人はどんな方でしたか What kind of person was he

職人気質で頑固、言葉数の少ないまさに九州男児の義父。


特に、義母が亡くなる頃までは、私にとってとても怖い存在でした。そんな厳しい義父も少ない言葉で孫をかわいがってくれていました。


義母が体調を崩し入院してからは、義父の食事を運んだり、私一人でも実家へ足を運ぶ回数も増え言葉を交わすうちに、笑顔で話してくれるようになってきました。


そんな厳しい義父は、とても几帳面で、義母が体調を崩してからは、代わりに畑作業をしていましたが、それはそれはきれいな整地、畝作り。そして、まさに草一本残さない、それは美しい畑づくりをしていました。


近所付き合いなど、すべて義母頼りだった義父も野菜を収穫すると、義母がしていたように、皆さんに分けていました。


春になると、山へ筍掘りに。収穫した筍を、すべて皮をむき大きな窯で茹でてから届けてくれるやさしい義父でした。


義母が亡くなってからは、表には出しませんでしたが、大きなさみしさと喪失感でいっぱいだったと思います。

病気はどんな経過を辿りましたか How did the disease progress

風邪もひかない元気な義父でした。


義母が亡くなってからは、やはり大きな悲しみの中にいたのだと思います。


10年ほど独り暮らしをする中で、「帯状疱疹」にもなり、酷い状況でしたが、我慢強い義父は「かなり痛むでしょう」と言われる医師に対し、「痛くないよ」と答えていました。


その後、徐々に義父の様子に異変がみられるようになりました。真夏にこたつを入れていたり... 亡義母の長袖の肌着を何枚も重ねて着ていたり...


私たちが見ていて、様々な異変を感じるようになりましたが、病院やデイサービスなど論外の義父だったので、何とか、かかりつけ病院での検査をし「認知症」と診断を受けました。


その後も毎日、家族で食事を運ぶ日々が続き様子をみていきました。一人、自転車で出かけては、ケガをし、血を流して帰ってくることもありました。


私が実家に行ったとき、玄関までガスの臭いがし、確認するとコンロをひねり点火されずガス漏れしていたこともありました。


その頃、私も様々な異変がおきてくるので、正直クタクタでした。やっと、義父を説得し週三日ほどヘルパーさんにお手伝いを頂くことになりました。義父の説得も容易なことではありませんでした。


そんな日がしばらく過ぎ・・・日中もあまりベッドから出なくなり、大好きだったテレビもつけなくなりました。


そんなある日、ベッドで高熱をだし意識が朦朧としているところに、ちょうどヘルパーさんが来てくださり、救急搬送。「てんかん発作」との事でした。


意識が戻らないまま数日が過ぎましたが、何とか一命をとりとめ、退院できる目途がたちました。


しかし、当時、私は仕事もしていましたし、何より「もうこれ以上、義父を一人で家に置いておくのは無理。怖い。」と思い主人にも話し、タイミング良く空きのある施設にそのまま入所することになりました。


入所後も、いろいろ職員の方や入居者のかたへ迷惑をかけることもあり、何度お電話いただき駆け付けたかわかりません。


それでも、面会に行くと最初は誰だか分からないようでしたが、話すうちに思い出し、自宅にいた時よりもたくさん話してくれる義父でした。


認知症はどんどん進み、後に息子である主人のことも、可愛がってくれた孫のこともわからなくなっていきました。


その辺りから、何度か繰り返す発作、意識障害で救急搬送。本当に、亡くなる前の半年間はなんど覚悟をしなくてはいけない状況になったか...


そして、最期は五年近くお世話になった施設の自分のベッドで、ひとり旅立っていきました。

やってよかったこと What are you glad you did?

出来たことはとても少なかったのですが...


義母が亡くなってから、毎日、食事を作り届けられたこと。特に認知症の症状が入ってきてからは、何をするでも私がいないといけなかった義父に、ほんの少し寄り添えたことでした。


本当にささやかな事だけでしたが、義父と過ごせてよかったなと思う時間でした。

もっとこうすればよかった Things I'm glad I did

本当にたくさんの思いがあります。


特に義母が亡くなってからは、もっと頻度に足を運んでいたら良かったのかなと思います。


自宅での介護は本当に大変なものでしたし、義父の健康と安全のためにもと決めた施設入所でしたが、その時の悔しさや辛さは本当に言葉では伝えきれないほどです。


「何とか家で看れなかったのだろうか...」と自分自身を責めました。


コロナ禍でもあり面会も厳しくなったとはいえ、もっとコミュニケーションをとる方法はなかったのかな...と悔やむことが多いです。

もっとこうだったらいいのに I wish it was more like this

自宅に居るとき。


もっとたくさんの介護サービスを利用できたらいいのにと思いました。介護度によって違いがあるのは理解できるのですが、毎日、安全確認に来ていただけたり...ヘルパーさんに食材等の買い物からお願いできたら、どれだけ家族の負担は減っただろうと思います。


医療機関でも、高齢だから...という医師からの言葉を何度も聞きました。確かに高齢でしたし、胃ろう以外の治療と言いますか...対処は出来なかったのかもしれません。


ただ、家族としては高齢だからで諦められる事ではありません。何歳であっても、家族は家族です。


仕方のない事だったかもしれませんが、もっと気持ちに寄り添ってくれる所に出逢えていたら...と思います。

この先 家族を看取る方へ伝えたい事 What I would like to convey to those who will be caring for their families

様々な病気、疾患があると思います。


義父の場合、初期段階での専門病院での受診やデイサービス等の利用を本人が頑なに拒みました。専門医の治療や進行を遅らせる対処は出来ていなかったのかもしれません。


もちろん、地域の包括支援センターの方といろいろな話をしサービスを受ける方向にもっていけないかと苦悩しました。


我が家の場合、自宅での介護の限界を感じ、有料老人ホームの空きが出て入所することができました。この時は、ほっとする気持も正直ありましたが、途中で投げ出してしまったような気持ちになり、辛く悲しい時でもありました。


でも、あれだけ外(他人)との関わりを拒んでいた義父が一度も「帰りたい」と困らせることなく、入所後はデイサービスにも行き、入所されている方や職員の方との時間を過ごしていました。


コロナ禍で面会も出来ず、最期の一年は救急車で搬送されたとき、病院で少しだけ顔を見られるくらいでした。


でも、義父にとっての最期の時間をお世話になったみなさまの近くで旅立って行けたことは、しあわせだったのかもしれません。


そして「延命治療」についても、一番に本人の思いを尊重してあげたいと思う反面、やはり...家族としては、本人が大きく苦しむ治療でなければ...という思いがあるのも本音です。


どちらが良いかはわかりません。本当に難しい問題だなと考えさせられました。


さまざまな病気で苦悩していらっしゃる患者さん本人にとっても家族にとっても、本当に「大変」という言葉だけでは言い表せない「時」がたくさんあると思います。


最期の大切なたいせつな時間を患者様ご本人にとっても、そして支えるご家族にとっても、心やすらぐ、お時間にしていっていただけたらと願うばかりです。


周りのご家族にとっても、心も体も大変なことだと思います。ぜひ、ご家族のみなさまもくれぐれもご自身のお体も大切にお過ごしいただけたらと願います。


支えてくださるところは、きっとあります。絶対に一人で抱えないで周りにたくさん頼って欲しいです。

旅立ったご本人へのメッセージ A message to the person who has departed

米寿の表彰状が届いた直後、満88歳で旅立ったお義父さん。


結婚して数年は、私にとって本当に怖い存在でした。でも孫が生まれ、言葉に出さなくても「やさしさ」をたくさん伝えてくれたお義父さん。本当にありがとう。


年齢を重ねてお義母さんが亡くなってからは、外に出ると私のことを目で探していたお義父さん。少し子供になったようなお義父さんだったね。


我が家を建てた後に、裏庭に倉庫を造ってくれて、その繊細な作業をする姿に「すごいな~」と思いました。そんなお義父さんの細やで丁寧なしごと。ちゃんと息子は引き継いでいるよ。


きっと、お義母さんが亡くなってからの寂しさは大きすぎるものだったと思います。お義父さんを一人で旅立たせてしまった後悔は尽きないけれど... でもやっとお義母さんに会えて微笑んでいるような気がします。


たくさんたくさん心配もかけました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。おとうさんありがとう。倉庫は、これからも大切に使うね。