私の看取り体験談 ~ 看取った家族の物語り ~ Last Shirahama Trip and Sushi
Stories of each family
家族が語る「それぞれの最期」
18年間ありがとう。高校卒業2日後の別れの体験談。

18年間ありがとう。高校卒業2日後の別れの体験談。

Last Shirahama Trip and Sushi
看取った方
看取り体験者 (女性)
ひまわり さん (女性)
34歳 主婦 大阪府
看取られた方
mother
享年 48歳
主な疾患 乳がん
闘病期間 4年 6ヶ月
最期を迎えた場所 病院

どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか

わたしが母を看取ったのは、高校を卒業したばかりの18歳のときでした。


母は乳がんでした。乳がんそのものは初期の初期という段階だったのですが、数年を経て肺、骨、脳などに転移し、48歳で亡くなりました。


12月にめまいで倒れ、ろれつが回らなくなっていたにも関わらず、「診察予約の日まで待つ。」といい、横になりながら家で診察の日を待ちました。


そして予約の日の当日を迎え、そのまま入院になりました。まだ食事も水分もとれていて、多少ろれつが回らないこともありましたが、会話も出来ていましたし、調子がいい日は、屋上に風にあたりにいったりもしました。


一度だけ、わたしのことがわからなくなった日があり「うちの娘によく似ている...」と、じーっとわたしを見ていました。体位を変えていたので看護師さんと間違えたのかもしれません。この日だけわたしがわからず、翌日にはいつも通りの母でした。


お正月に母の実家である祖父母の家に一時帰宅をしましたが、亡くなるまで、自宅に戻ることはありませんでした。


そのときもすでに車いすに乗っての移動で、導尿カテーテルを入れていたりと医療的ケアも必要でした。


当時私は、高校卒業間近だったこともあり、授業はほとんどなかったので、病院に泊まる日が多くなりました。


腹水がたまってしまい、呼吸がしづらくなっていたことも影響してあまり眠ることもできずにいたので、「ゆっくり呼吸してみよう。すってー はいてー 」と夜中に声をかけたりして過ごしていました。


制服を着たわたしが病院へ行くと目に留まるようで、他の患者さんやお見舞いの方から声をかけてもらったり、おやつをもらっていました。


母と最期に話したのは、わたしの高校卒業式の日でした。卒業式後に病院に行き、すでに寝たきりになってしまっていた母に卒業証書を渡しました。


看護師さんが、「わかっているかな?」と言ったので、「わかってるよねー。」と母に話しかけるとこちらを向いて、「なにが?」というので「わたしが卒業したの、わかってるよね。」と聞くと「うん。」と頷いて、制服の胸についた花飾りを見ていました。


これが、母とわたしが交わした最期の会話でした。その日から2日後の夜中に母は亡くなりました。


病院に泊まるのは主にわたしで、親戚が泊まることもありましたが、お見舞いにはいくものの、父は決して泊まりませんでした。


亡くなった日の昼にもわたしは母の病院にいたのですが、薬で朦朧としているなかでも、何となく父に会いたがっている気がしたので、その日は帰宅後に「今日はお父さんが病院に泊まって。」と頼みました。泊りにはいきたくない様子でしたが、夜、父は病院に泊まりにいきました。

父は、「自分が泊まりにいくのを待っている気がして、行ったら逝ってしまう気がしていた。」と話していました。まさにその通りで、夜テレビをみていたときに母の好きな歌が流れたので、イヤホンを母にもつけてあげたそうです。


父を見て、何か言いたそうにしてそのままアラームが鳴り始めたそうです。父の予感は当たっていました。夜中に父から電話があり、妹とタクシーで病院に向かい、叔母家族と祖父母に見守られながら、母は静かに息を引きとりました。


周りで逝かないでという大人をみながら、わたしは「おつかれさまでした。きつかったね。」と逝かないでほしいという気持ちもありながら、やっと母は楽になれるのだと、どことなく、ほっとした気持ちで見送りました。


乳がんと診断されてから4年半ぐらいのことでした。


入院から亡くなるまで3か月ほどでしたが、この3か月が長かったようなあっという間に過ぎていったようなどちらとも言える感覚でした。


腹水がたまり、全体的にむくんでいたために、やせ細っていくこともなくお化粧もしてもらった母は、眠っているようでした。そんな姿は、苦しかった日々よりも、点滴などもとれて解放されたような穏やかな顔にみえました。


ご本人はどんな方でしたか What kind of person was he

母は、しっかり者の長女気質で、責任感も強く、PTAの役員などもお願いされると断れずに何度もするような人でした。


わたしには厳しく、毎日のように叱られていました。それでも、18歳で何にも困ることなくその後を過ごしてきたので、小さく体調を崩しやすかったわたしをしっかりさせなければという想いの強い人だったと思います。


七草がゆや、冬至のかぼちゃの煮物など季節や行事ごとも大切にする人で、マナーや作法も困らない程度には教えられていました。


裁縫は実は得意ではなかったのに、ピアノの発表会には衣装など、手作りの洋服をよく作ってくれていました。保育士でもあり、絵本の読み聞かせが上手で、年の離れた従弟に読んでいた姿を覚えています。

病気はどんな経過を辿りましたか How did the disease progress

最初に乳がんと診断されたのは、わたしが中学2年生の時でした。夜中に母に起こされ、ここにしこりがある気がするんだけど触ってみてくれないか、と言われたことを覚えています。


マンモグラフィーや細胞をとる検査でははっきりとはわからず、手術でしこりを取り除き、ステージ1の中でも初期の乳がんであると診断されました。術後1週間で仕事にも復帰し、その後は毎日薬を飲んでいました。


検診の血液検査で数値が上がってきたことから再発が発覚し、抗がん剤治療がはじまりました。入院して抗がん剤を点滴し、数日後には退院するという生活でした。数値は良くなったり、悪くなったりを繰り返し、ろれつがまわらなくなったことで入院しました。


肺、骨、脳に転移したため、放射線治療ができる病院へも行ったようですが、場所が悪く治療できずに元の病院へ戻りました。


乳がんのステージ1の5年生存率は高いとされていますが、母は40代と若かったこともあり5年を待たずに他界しました。

やってよかったこと What are you glad you did?

当時、中学生~高校生の時期であったために大したことはできませんでしたが、母の体調が悪いときには次はどうするの?と聞きながら料理をしたこともありました。


不器用なわたしを見ていると危なっかしくて仕方ないと言って、料理の手伝いなどほとんどしたことがなかったのですが、聞いていてよかったなと思います。


あとは、大学受験が学内推薦でスムーズに終わったこともあり、最後の入院期間は病院に泊まって病院から登校する生活をしたのも大変ではありましたが、なかなか二人だけで過ごすことはないのでよかったです。


ごはんの介助や歯みがき、清拭、排せつ物の処理なども他から見ると辛そうに見えたと思いますが、数少ないできることをしたのは後悔も残らず、よかったです。

もっとこうすればよかった Things I'm glad I did

当時のわたしがもし大人だったら、担当の医師の先生からもっとしっかり話を聞けたと思うのですが、病気のことはもっと説明を聞いておきたかったなと思います。


何となくもう家には帰ってこられないのだろうなと察してはいるものの、はっきりと説明を聞いて理解した上で一緒にいられたら、また違った時間を過ごせたのかもしれません。


また、ホスピスに入れてあげたかったなとも思います。当時はホスピスの存在をよくわかっていませんでしたが、大人になるにつれて、緩和ケアをメインにしてもらって、寝たきりではなくもっと違う最期があったのではないかと考えてしまいます。


痛みをとるだけでなく、ホスピスであれば、家族だけで過ごすこともできたし、もっと会話ができる時間が長かっただろうなと感じています。


あとは、写真や動画を撮っていれば良かったとも思っています。母という立場だとどうしても撮るほうが多いので母が写っている写真が少ないのです。


当時はスマホもありませんし、動画は昔のものしかありません。顔は思い出せても、声や話し方はどんどん記憶が薄くなってしまうので、いまは手軽に動画撮れるのになぁとふと思います。

もっとこうだったらいいのに I wish it was more like this

子どもにどこまで説明するかは周りの大人の判断によるとは思いますが、子どもにも病状の説明を聞く権利はあると思うので、聞きたいかどうかの意思確認があったらいいなと思います。


聞きたくない人もいるでしょうし、わたしのようにもっと違う時間を過ごせたかもしれないと感じる人がいるかもしれません。本人への告知もそうですが、関わる家族の意思を一度確認してほしいです。

この先 家族を看取る方へ伝えたい事 What I would like to convey to those who will be caring for their families

18歳で母親を看取ることになるとは想像もしていませんでした。母を見送ってから数年ごとに親族を見送ってきました。家族に近い存在であった知人たちも見送りました。


わたしは30代ですが、結婚式への出席回数よりも葬儀への出席回数が圧倒的に多く、葬儀後にしなければならないことまでほぼ把握している状態です。


もし、まだ話せる状態であるならば、たくさん、たくさん、お話をしておいてほしいです。


毎日あった何気ない出来事でもいいですし、親を看取るなら自分が子どものころの話を聞くのもいいかもしれません。夫や妻ならば、思い出話に花を咲かせるのも苦労した話をしてもいいでしょうし、これから先の話を伝えておくこともいいと思います。


お子様であれば、どんな年齢であろうとも手を握り、抱きしめてあげてほしいと思います。わたしは子どもを失ってはいませんが、わが子が難病であり、同じ病気でお子様を亡くされた方とのつながりがあります。


もっと抱きしめてあげたかったと聞くことが多いので、ぜひ抱きしめてあげてください。それが小さいお子様でも、たとえ成人した大人であってもです。


最期のときまで病気と闘うのか、時を待つだけになるのならばQOLを優先するのかはご本人次第ですが、治療をメインとする病棟で過ごすのか、ホスピスなど別の場所で過ごすのかは後悔のないように選択されてください。


わたしは自分に可能なことをできる限りしましたが、明らかに弱っていく姿を見るのが辛いのであれば無理はしなくても良いと思います。


人は生まれた瞬間から最期のときへ向かって歩きはじめます。それがいつになるのかは誰にもわかりません。


「出発するよー。」と言った5分後には準備を整えて車に乗るような、せっかちな性格だった母は、あっという間にこの世での役割を終えてしまったのだと落ち着いてからふと思いました。


他界してから一度も夢にも出てこなかった母が、わが子が難病であると診断されたその日に夢にでてきて「しっかりしなさい!」と言われました。


15年以上経ったときに夢で叱られるとは想像もしていませんでしたが、わたしはその日、産むと決意し、きっと見守ってくれていると信じて今も子育てをしています。


治療や生活の変化で大変な日々を送ることになりますが、どうか最期のときに「おつかれさま。」と言えるような看取りになりますように。どなたかの参考になれば幸いです。