[杉原敏一さん]最後は「普通の親子」に

01/01 (木) 07:06更新


現役ゴルファー貫いた父

 プロゴルファーの杉原輝雄さんは、一昨年に74歳で亡くなりました。がんに侵されながらも、選手生活を優先するため、あえて手術を選択せずに闘病を続けました。

 長男でプロゴルファーの敏一さん(49)は、「父は厳しい師匠、偉大な先輩でした。亡くなる前に、ようやく親子としての関係を取り戻せた気がします」と振り返ります。

 父が前立腺がんの告知を受けたのは、1997年12月。実はこの時、父は私には打ち明けませんでした。翌年4月、父が記者会見でがんを告白したとの記事を見て初めて知ったのです。

 父は「手術をしたら、しばらくツアーには出られなくなる。選手生活を棒に振るのはもったいない」と言って、ホルモン治療でがんの進行を遅らせる方法をとりました。

 父は絶対的な存在で、治療法に口を挟む余地はありませんでした。もっとも、プロゴルファーとして数々の試練を乗り越えた父ならば、がんも必ず克服できるはず、という確信めいたものが家族にはあり、不思議と不安は感じなかったですね。

がん手術せず

 輝雄さんは57年に20歳でプロテスト合格。62年の日本オープンでプロ初優勝し、73年以降のツアーで28勝をあげた。海外でも1勝した。50歳以上のベテラン選手によるシニアツアーでも6勝。日本を代表するプロゴルファーの一人として知られた。

 ホルモン治療を選んだものの、副作用が問題でした。パワーが減退し、ゴルファーの命であるドライバーの飛距離が下がってしまうのです。

 1メートル62と小柄な父は、がんが見つかる2年ほど前から、パワー向上のためのトレーニングに懸命でした。「寿命が縮まっても、プロとして最善を尽くす」という覚悟から、ホルモン治療は数か月で中止し、定期検診で様子を見ていくことにしたのです。

 幸い、がんの進行は遅く、父はツアー出場を続けることができました。

体力低下響く

 輝雄さんは、シニアツアーだけでなく、若手トッププロも参加するレギュラーツアー出場にもこだわり続けた。2006年には、5年ぶりにレギュラーツアーで予選を通過。「68歳10か月」の国内最年長記録を樹立した。

 08年3月、練習中ポツリと「がんが転移しているかもしれん」とつぶやきました。詳しく調べると、リンパ節への転移が認められたのです。

 「選手として残された時間は長くない」という思いがあったのでしょう。現役続行を念頭に手術はせず、放射線治療にかけました。出場数を減らしながらもツアー参加を諦めませんでした。ただ、治療による体力低下も響き、予選通過はかないませんでした。気力の衰えも目立つようになりました。放射線治療の後には「しんどいなあ」と弱音を吐くことが多くなりました。

距離が縮まる


最後のツアー出場となったミズノオープンよみうり
クラシックでプレーする杉原輝雄さん(2010年
6月24日撮影)

 輝雄さんのツアー出場は、10年6月の「ミズノオープンよみうりクラシック」が最後となった。直後に新たながんの転移がわかり、入退院を繰り返した。

 亡くなる前の1年ほどは、ベッドに寝ていることがほとんどでした。主に母が食事などの世話をしていましたが、車で10分ほどの場所に住む私も、時間を見つけては父のもとを訪れました。

 母に代わって、ベッドの父を起こして体を拭きました。しきりに腰の痛みを訴えるので、そのたびにさすりました。強い父しか知らなかった私としては、世話をするのは複雑な気持ちもありました。車で父を病院に連れていき、院内を車いすを押して回るのも私の役目でした。

 食べ物をのみ込むのもつらそうでしたが、ある日、「甘い物が食べたい」と言うのです。好物のケーキを買ってきて食べさせたら、うれしそうに「ありがとうな」と言ってくれたのです。照れ屋の父が言ってくれた、唯一の感謝の言葉だったかもしれません。

 弱った姿は身内以外に見せたくなかったのでしょう。見舞いの申し出はほとんど断っていました。プロゴルファーでも、見舞いに来てくれた人は1、2人しかいないはずです。サービス精神にあふれ、話し好きだった父にとって、心苦しかったかもしれませんが、最後まで「現役」を貫きたかったのだと思います。

 プロになってからも、父との距離を感じていました。厳しく突き放されることが多かったし、大先輩を前にすると、どうしても遠慮してしまったのです。父と過ごした最後の時間は、そうした壁が自然と取り払われ、「普通の親子」の関係でした。そんな中で「石川遼君に負けたらあかんで」と励ましてくれた一言が、今も耳に残っています。(聞き手・田中左千夫)

 ◇すぎはら・としかず 1964年、大阪府生まれ。90年にプロテスト合格。91年に関西オープンでプロ初優勝を果たす。この時は輝雄さんと最終ホールまで優勝を争い、輝雄さんは1打差の2位だった。

 ◎取材を終えて 偉大な父と同じ道を歩むことは、想像以上の重圧なのだろう。「いつも『杉原輝雄の息子』という称号がついて回った。正直言って、プレッシャーでしかなかった」と敏一さんは苦笑する。それでも、「来年、50歳になれば出場できるシニアツアーで優勝するのが目標。親子でシニア制覇となったら、『杉原輝雄』の名前が改めて注目されますから」と語る姿に、父への深い愛情を感じた。

*2013年12月15日

ヨミドクター = 文