祖父への歌はギターと共に、一室に集まる3世代
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
祖父の最期には立ち会うことができませんでした。
むしろ祖父が孫である私と弟を最期まで見守ってくれたのです。祖父が亡くなったのは、2022年の11月末。もうすぐ一周忌になります。
「そろそろかもしれない。」福島県福島市に住む祖母から母に連絡が入り、私も母からの連絡で祖父の状態を知りました。
当時の私は東京都に住んでおり、その日は仕事の最中でした。
「仕事はいいから、直ぐに行ってあげなさい。」上司に相談すると、何の迷いもなく、そう言ってもらえました。私の都合で辞めてしまった勤め先ですが、この日の心遣いには本当に感謝しています。上司に相談した後、私は直ぐに職場を出ました。
いったん自宅に戻り、急いで身支度を整え、福島ではなく長野へ向かいます。
岐阜から車で来る母と弟に途中で合流し、運転を交代する段取りでした。
当時は弟がまだ運転免許を持っていなかったので、母の負担を減らすのが目的でしたが…今になって考えると少し遠回りだったと思います。
突然の話で私も母も細やかに段取りをする余裕がありませんでした。長野で夕食を済ませ、高速道路で福島へ。休憩を挟みながら向かい、到着する頃には深夜の2時を過ぎていました。
翌日、寝室を覗くと、そこには驚くほど痩せ細った祖父の姿が。あんことお酒が大好き、食いしん坊の祖父からは想像できない姿に私は言葉を失いました。
声を掛けると、反応はありますが、言葉としての意味は成しておらず。握った手の力のなさに命の最期を感じざるを得ませんでした。
かねてよりの祖父の希望で無理な延命治療はしていないと聞いてはいましたが、現実を目の当たりにして落胆したのをよく覚えています。
落ち込みはしましたが、滞在中の祖父の容態は安定しており、起きている時に話しかけに行ったり、祖母と一緒にご飯を食べたりして過ごしました。
数日経ち、弟が大学の講義で岐阜に帰る前日の夜。私も職場を空け続けていたので、母を福島に残して2人で一度戻ることになりました。新幹線で東京まで一緒に出て、弟を名古屋行きの新幹線に乗せる算段でした。
私が風呂から出ると、祖父の寝室で弟が持って来ていたギターを弾いていました。大学でアコースティックギターのサークルに所属している弟は、演奏会が近いらしく、練習をしていたのです。後から聞いたところによると、母の提案で祖父に聴かせていたのだとか。
私も祖父の寝室で弟の練習を聴いていると、家事を終えた祖母と母も集まってきました。みんなが何かを感じ取り、祖父のために…誰が提案するでもなく、気が付けば弟の演奏に合わせてみんなで歌を歌っていました。
祖父はみんなの歌声を聴きながら、声を発していました。変わらず意味を成す言葉にはなっていませんでしたが、声色は確かに嬉しそうだったと思います。翌日、祖父に挨拶をして私と弟は福島を発ちました。
弟が岐阜に着いて数時間後、母から電話が。その電話で祖父が亡くなったと聞かされました。「まるで孫が無事に帰るのを見守ってくれていたみたいだね。」母にそう言われ、私は東京の空の下で天国へ旅立った祖父を思いました。