父に伝えたかった言葉
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
「父さんがもう危ない、とにかく何か話しかけて!」空港から自宅へ向かう途中、兄からの電話に緊張が走りました。
「父さん、私もう帰ってきたのよ、もうすぐ家に着くのよ!」そう話すも、聞こえてくるのは兄と母と従姉妹たちの声でした。
「父さん、父さん、聞こえるか?今日子、帰ってきたんだよ!」「お父さん!お父さん!」「おじさん!頑張って!」私はスマホを握りしめ父に呼びかけながら車から降り、実家の玄関で派手に転倒するも、父の元へ。
対面した父は、息を引き取った直後のようでした。父の手はまだ温かく、うっすらと開いた目はまだ瞳が濡れていた様子もあり、母は、一定のリズムで稼働し続ける在宅人工呼吸器を見て「このランプが付いているなら大丈夫よ。」と言っていました。
しかし、多少なりとも医療知識があった私は、父が逝ってしまったことが理解できたので、父の横で、ケアマネージャーさんと主治医の到着を静かに待つしかありませんでした。
徐々に冷たく硬くなっていく父の手を握り、35年ぶりくらいでしょうか、父の胸に頭を載せて、ただただ涙だけが流れていく1時間でした。
その日は昼前に父の容体が急変し、母が福岡の私に連絡した時にはまだ意識があり、私が帰ってくることを聞くと頷いたそうです。
付きっきりで父を介護した母、毎日のように実家に通い母をサポートしてきた兄、離島から私より一足早く実家に着いた弟、知らせを受け駆けつけてくれた従姉妹たちに見守られながら、父は最期の時を迎えたようでした。父の望んだ「最期の時」であったと、そう思っています。
2015年、初めて父から癌かもしれないと、治療は望んでいないと、精密検査すら断るつもりだと電話で相談されてから6年近く、父は本当に元気に過ごしていたのです。
年に数回の定期検査、そして主治医との信頼関係もあり、父本人も私たち家族も、病気の存在を恐れるようなことはありませんでした。ライフワークのジョギング、テニス教室、地域のバドミントンと、元体育教師は生涯現役でスポーツを愛していました。
2021年、年明けに体調を崩し入院してからは、あれだけ沈黙していた病気が、あれよあれよという間に進行したのです。コロナ禍で面会規制が厳しい中での入院は、気丈だった父を気弱な人に変えてしまいました。
父が入院中のある夜、実家で母と兄弟3人で話し合いました。父本人の希望もあり延命治療は行わないこと、住み慣れた我が家で最期まで過ごすこと、母の負担を少しでも軽減すること…、不安に沈んでいる余裕なんてありませんでした。
在宅介護について調べる、主治医と病院に相談する、父に今後についてどう説明するかなど、課題が山積の中、兄弟の存在がとても頼もしく、とても有り難く感じました。父の想う最期を実現しようと、家族の気持ちを確かめ合った夜でした。
日に日に細く弱っていく父に、少しでも前を向いてもらいたいと、兄妹が一度に集うのではなく、あえてバラバラに、離島の弟、福岡の私が1ヶ月ごとに実家に行くようにしました。父は、電話越しの孫たちの声や、私の他愛のないメールをとても喜んでいたそうです。
父が亡くなる1ヶ月前、家族5人が揃った夜がありました。父と母と兄と私と弟。「もう何十年ぶりかね、家族5人の食卓なんて。」母の言葉に、父は小さくうんうんと頷いていました。めっきり食が細くなり、食べることもやっとになった父は、その夜、久しぶりに、出された料理を全部食べてくれたそうです。
あの日、親子水入らずの時を過ごせたことが、父から私たちへの最後のプレゼントだったように思います。葬儀が終わり、実家に父の位牌を持ち帰ったその夜、母は「よかったね、お父さん。」と父に語りかけていました。