どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
若年性アルツハイマーを患っていた母は、施設に入所していました。
身体が硬直して全く動くことができないので、施設のベッドで寝たきりでした。筋肉は落ちてしまい、手足は痩せ細り、顔も痩せてシワとシミができて年齢よりかなり老けていました。
病気になる前の母は、美容にとても気をつけていた方で、シワもシミもほとんどなく、化粧をしていました。年齢の割に綺麗で、そしていつも笑顔でした。
週に一度は必ず家族で施設に顔を見せに行ってましたが、家族が来てもニコリと笑うこともなく、目も合うことがなく、無表情で、口をポカンと開け、天井を見続けていました。
また、自力で排泄ができないので尿道には管を通されており、噛むことも飲み込むことも出来ないので、胃に穴を開けて直接栄養を送り込む胃瘻処置もされていました。内臓の機能もだんだんと弱ってきていました。
元々心臓が弱かったので、入所施設からはいつか心臓の機能が低下すると言われていました。
施設に入所して約1年半が経とうとしていた頃、施設から電話が入りました。心臓の動きがかなり弱まっている、すぐ来てくれと言われました。家族で母がいる施設へと向かいました。
道中、覚悟が必要だと父に言われました。入院している母の病室に入ったら、母には酸素マスクがつけられおり、その隣にはよくドラマでもみるピッピッと心臓の音が鳴る機械も置いてありました。
素人でも分かるくらい、心臓の音が弱まっていて、今にも止まりそうな感じでした。医師からは今夜乗り切れるかどうか分からないと告げられました。
母の横に椅子を置いて、耳は聞こえているはずなので、家族で涙を流しながら思い出話をしました。昼前に着いていたのが、気が付いたら夕方になっていました。
急に母が小さく、弱々しい声で「うぅー」と唸りました。表情がとても苦しそうでした。きっと心臓が痛くてたまらないんだと思いました。
苦しげな母を見るのが辛くて、その場から離れたかったですが一番辛いのは母です。
どうしてあげることもできない中、父が母の手を握り、「もう頑張らなくていいよ。十分頑張った。ありがとう。ありがとう。」と父も涙を流しながら、母はその日の夜息を引き取りました。
ご本人はどんな方でしたか
What kind of person was he
いつもニコニコと笑顔が素敵で明るい人で、自分よりも家族のことを優先する優しい母でした。
また、裁縫が得意で、自分の服を作ったり、子ども(私と姉)が小さい時にはお揃いの服を作ってくれたり、私と姉の通園バックや、かっぽう着にキャラクターを縫い付けたり、手先が器用な人でした。
そして勤勉で、家族が健康でいられるために料理の勉強をしたり、パン作りの教室にいったりして努力家の人でした。
そして、活発な人だったので、空いている日にはスポーツジムにいって運動もたくさんしていました。忙しい毎日を過ごしていながらも、学校帰りには必ず家にいてくれて、笑顔で「おかえり」と迎えてくれました。
病気はどんな経過を辿りましたか
How did the disease progress
最初の異変は性格の変化でした。
いつも穏やかでニコニコしている母が、しょっちゅう怒るようになりました。また、今までは整理整頓ができていたのに、あれがない、これがない、と1日中部屋をぐるぐる周り探しものをしていました。
そして、意欲がなくなっていき、身なりを全く気にしなくなり、大好きな裁縫にも一切手を付けなくなりました。
2ヶ月〜3ヶ月に一度は美容院に行っていたのも行かなくなり、髪はボサボサで、お化粧も全くしなくなり、オシャレな服も着なくなったので毎日ジャージ姿でした。スポーツジムにも行く事はなくなり、スタイルがどんどん崩れていきました。
おかしいな、と思ってから約3ヶ月経った頃、急に数字が分からない、時計が読めない、カレンダーが分からないと言い始めたので、嫌がる母を病院へ連れて行ったら若年性アルツハイマーと診断されました。
運動して鍛えていたはずなのに、歩いている途中でよく躓くようになり、だんだんと歩行が困難になりました。姿勢は悪くなっていき、猫背がどんどん酷くなり、顔が垂れ下がってきました。
トイレが分からなくなり、排泄のタイミングも掴めず失禁、失便もするようになりました。食べ物が認知できなくなり、食事与えようにも口を開かず、全力で拒否をし、水分もとろうとしませんでした。
体重はどんどん落ちていき、医者が脱水症状の危険があると判断をし、胃瘻処置をすることになりました。車椅子生活になり、自力で立ち上がることもできなくなり、寝たきりになりました。
やってよかったこと
What are you glad you did?
若年性アルツハイマーは寿命が5年〜10年という短い期間です。進行も早いため、残された時間は本当に少ないです。私たち家族は旅行にたくさん行きました。
一緒に温泉旅行に行ったり、ディズニーランドへ行ったり、ユニバーサルスタジオジャパンなどへ行きました。お金を惜しまず、とにかくたくさん出かけて、たくさん美味しいものを食べて、その時の写真や動画をたくさん残しました。
また、私も姉も母に感謝の言葉をたくさん伝えました。料理を作ってくれてありがとう。洗濯をしてくれてありがとう。いつも家族のために考えて行動してくれてありがとうと、分からなくなる前に言葉にして伝えました。
普段の日常が少しずつ失われて行く前に、当たり前の事が当たり前じゃなくなっていく前に、母には感謝の気持ちをたくさん伝えていきました。伝える度に母も喜んでいました。
もっとこうすればよかった
Things I'm glad I did
病気になるまでは、母のありがたみを全く感じていなかったです。
当たり前のように毎日ご飯を作っては、後片付けをしてくれていました。家全体の掃除をして、お布団を干して、洗濯をしてくれました。また洗濯物は綺麗に畳まれていました。
感謝の言葉を伝える事が少なかったです。そして、私と姉は社会人になると友だちと出かける事が多くなり、母と一緒に買い物に行く事も少なくなりました。
いつも家に帰ると一人ポツンとテレビを見ていたので、寂しい思いをさせてしまっていたと思います。
日頃からもっと母に感謝の気持ちを伝えておけばよかったと思います。元気なうちにもっと一緒に出かければよかった、もっと一緒に買い物に行ったり、旅行に行けばよかったと思います。母の得意だった裁縫を学んで、母と姉と私の3人でお揃いの服を着て出かけたり、料理を学んで母に食べさせてあげたかった、と思いました。
もっとこうだったらいいのに
I wish it was more like this
もっと早くに異変に気付いていればよかったと思います。
早くに気づいていれば、処置も早くできて、もしかしたらまだ元気で長生きしていたかもしれないと思います。そして、若年性アルツハイマーが治ればいいのに、と毎日思っていました。
大きな病院へ定期的に検査に行ってましたが、MRIを取るたびに脳の萎縮は進んでいるし、認知症の進み具合を調べるテストをしても、点数はどんどん下がっていきました。良くなることはなかったです。
病院にいって、薬をたくさん処方されても治る訳でもなく、進行を緩やかにするだけです。完治する薬があれば良かったのに。
2023年に、超初期の若年性アルツハイマーを完治する新薬が開発されました。
もっと早くに開発されていれば母は元気になって、もっと長生きをして、父と第二の人生を楽しんでいたんだろうな、とニュースを見ながら思います。
この先 家族を看取る方へ伝えたい事
What I would like to convey to those who will be caring for their families
若年性アルツハイマーという病気は本当に辛く、そして悲しい病気です。
家族のことを忘れてしまい、自分の親のこと、自分が産んだ子どものことさえも忘れてしまいます。性格はガラッと変わり、暴言を吐かれたり、攻撃的になったり、暴力を振るわれることも多々あります。
介護をしていると、人は見返りを求めてしまう生き物なので、感謝されたい気持ちが出てきます。
こんだけやっているのに、何故逆らうんだ。あなたのためにやっているのに!と何度も思ったり、時には口に出して言ったこともあります。だからといって、私は母の事を嫌いにはなれませんでした。だって、病気が母を変えてしまっただけであって、本人は全く悪くないのですから。
ですが、身内だからこそイラついてしまったり、悲しくて涙が出たりします。家族で介護するのには限界があります。
ノイローゼになってしまう可能性もあります。一人で抱え込まず、病院や介護士、看護師、ケアマネージャーに頼ることです。冷たい医者もいれば、患者の家族にしっかりと寄り添ってくれる医者もいます。
自分に合った医者を見つけることです。介護する側が倒れてしまったら、アルツハイマーになった人は生きていけません。
周りに助けを求めてください。そして、介護するには多額のお金がかかります。役所、行政に頼ってください。お金がないからといって、一人で介護しようと思わないでください。必ず助けてくれる方はいます。
アルツハイマーと診断を受けたからといって、諦めずにいきましょう。
いつか薬が開発されるはずです。少しでも身内におかしいと感じたら、本人が嫌がっても病院へ連れていきましょう。初期段階で対処すれば治る可能性もあります。
旅立ったご本人へのメッセージ
A message to the person who has departed