「私の看取り体験談」 ~ 家族が語る 最期の物語り ~
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
私が23歳の頃、母が多系統萎縮症と診断されました。原因は解明されておらず治療は望めませんでした。処方された薬も効き目はなく、進行スピードは想像しているより早く恐ろしかったです。
あっという間に歩けなくなり、ご飯が喉を通らなくなってしまいました。栄養を取り入れるため病院では栄養ドリンクを処方してもらいましたが母にはあわず、お腹を下してしまうのです。排泄障害も出ておりトイレに行きたい感覚をコントロールできなかったためお腹を下してしまうことはとても嫌がっていました。しかもトイレまで這っていくのでいつも足は痣だらけです。
何をやってもいい方向には転ばず、何度も母が布団で一人で声を殺しながら泣いているところを目撃したときは私も泣くしかなかったです。
当時60代半ばの母にとって車いすに紙パンツは恥ずかしく外には出ず、紙パンツは拒否していました。このころは同居していなかったので母の家まで通っていました。私は子供が生まれたばかりで週に1~3日通っていたのですがこの生活ができたのは当時のケアマネージャーさんと主人のおかげです。
周りの助けがあって成立していた介護と子育てですが、やはり限界はありました。エアコンをつけないので熱中症になったことや、水分を摂ることができず脱水症状になったこともあります。姿勢を制御できないので急に倒れてしまい頭を縫うケガをしたこともあったり、いよいよ1人で暮らすのは無理ではないかという結論になり同居を開始しました。
母が私にご飯のお世話をされることや、排泄の処理をされることを非常に嫌がり、動けない体を何とか動かし一人で紙パンツを変えていることもありました。時には便を我慢して体調を悪化させてしまうこともあったので、母の場合は看護師さんによる摘便と薬で調整し解決していただきました。水分補給や排泄処理は看護師さんやヘルパーさんのお世話になることが多かったです。
一日置きにデイサービスと訪問看護を入れて夜は毎日ヘルパーさんがいらっしゃいました。月に1回は訪問診療の先生がいらっしゃるので毎日朝から夜までたくさんの人が入れ替わり家を訪れていました。各事業所が連携を取ってシフトを組むように協力してくれていましたが、私としては常に他人が家に居るというのは正直苦痛でした。しかしそれ以外に母の要望に応える方法が見つからなかったのです。
ここまで症状が進行してくると課題になるのが栄養補給の問題です。誤嚥の心配があり胃ろうの提案がありました。我が家では胃ろうはしないという結論がでましたが実際母がどのように思っていたかはわかりません。すでにコミュニケーションはほとんど取れていなかったからです。
私と母は会話ができない苛立ちで常に険悪でしたが周りの方々のおかげでなんとか生活をしていました。それでも病の進行が止まることはなく常に血圧が低くボーっとしていることが増えました。水分が思うように摂れないせいか、尿も出が悪くなり何度も膀胱炎になりバルーンカテーテルを導入しました。もちろん何かが好転することはありません。
ある日私と主人と子供が感染病にかかり母の介護どころではなくなりました。急遽、施設を利用させていただきましたが、その日の晩に母は熱を出し救急搬送されてしまいます。4日程経ち、私たちも回復してきたころ病院から「安定している」と連絡をいただきほっとしました。
「あと10日程で退院できるかな?」と思っていた矢先、夜中に電話が鳴りました。「脈が弱まっています」とのことでした。混乱しましたが、自宅待機だった私たちは病院にいけません。ただ連絡が来るのを待ちました。しかし、そのまま母は家に帰ってくることはできませんでした。
自宅で私が最期を見届けるものだと思っていたのに…ずっと施設や病院に行くことを嫌がっていた母に最期を病院で過ごさせてしまったことが悔やまれました。脈が弱くなっているという言葉を思い出し、母は生きる気力が無くなってしまっていたのではと、もう全てを諦めてしまったのではと思いました。
家に帰ってきた母はもう何も言ってくれません。私を責める母が頭から離れることは今後もないでしょう。後悔しか残らない介護生活はこうして終わりました。