膠原病の母を自殺で無くして感じた家族の価値
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
全身性エリテマトーデスを患っていた母を亡くしました。最期には立ち会えませんでした。自殺だったためです。
私は大学3年生でアルバイトをしていました。不思議なことにその日、「母とは長く一緒にいられない。」とふと思いました。同時にお線香のような香りがしました。
料理上手な母がしょっぱい鍋を作っていたことを思い出し、私は「母の具合が悪そうだったからそう思ったのだろう。」と一人納得していましたアルバイトが終わり、目を疑うほどの父からの留守番電話が入っていました。
留守番電話には「母が自殺した。」と残されていました。電話をかけ直し、「なんで、家にいて、具合悪いって分からなかったの⁉どうして放っておいたの⁉」と家で母と一緒にいたはずの父に声を荒げてしまいました。
「ごめん…母さんの体調が悪いって思って、弁当を買いに行ってたんだ…ごめん…」と父の悲壮な声を聞いて、私は父を責めることができなくなりました。
私自身も母が具合悪いことを分かっていたなら、家にいる選択もあったはずでした。私も家族として母を優先する選択が出来なかった時点で、父を責めることはできないと思いました。
母にもう会うことはできない。アルバイトに行く前に母の寝室に「行ってきます。」と声をかけて「いってらっしゃい。」と母から返事をもらったばかりなのに。そんな思いばかりが頭を埋め尽くして、全く現実感がありませんでした。
中学生の頃からの友人のお母さんが冠婚葬祭の仕事をしていることを思い出し、私は連絡を取りました。火葬場を見つけ、親戚価格での火葬費用にしてくれました。
「ちゃんと一緒にお母さんを送り出してあげようね。」と死ぬのではなく、まるでこれから母が旅に出るかのように友人のお母さんは、私に声をかけてくれました。その言葉に「母は苦しいことはもうなくて、旅に出るんだ。」と思いました。
死ぬための準備ではなく、母が旅に出かけるための準備をするのだと思うと、お別れが少し明るいものに思えました。
さらに、化粧や装束、末期の水といった儀式も「簡略的になるのでお金は要りません。」と言いながら行ってくれました。化粧は普段から母が使っている化粧品を使いました。祖母が母のお気に入りの優しい桜色の着物を母に選びました。遺体の硬直があるため、可能な限りで、友人のお母さんが着物を着せてくれました。
私は「母の送り出し」の準備をすることで、喪失感がある虚ろな胸の中に、ストンと嵌るものがあるような気がしました。
母の火葬を行っているときに私は、親族待合室にいることができませんでした。私は「泣きもせずしっかりした娘」でいなければならないと思っていましたが、この時ばかりは感情を押さえられませんでした。
私は親族待合室に戻らず、ふらふらと施設の中を歩いていました。その時に、待合室の外に座っていた友人のお母さんを見つけました。友人のお母さんは火葬を親戚価格にしてくれていたので、火葬に参加しなければならなかったのです。待合室に戻ることのできない私に気を遣ってくれたのか、色々な話をしてくれました。
その時に言われた言葉で忘れられない言葉があります。
「あなたのお母さんは安心したんだと思う。」
最初は信じられませんでした。私は母にも親戚全員にも責められて然るべきだと思っていました。しかし、友人のお母さんは「その人にとって良いことがあると、自ら命を絶ってしまう方とたまに会うから。」と話してくれました。そう言われて、私は思い出しました。
母は、私が幼い頃に、私が20歳を迎えるまで生きることは難しいと言われていたそうです。しかし、母が亡くなる一年前に私は成人式を迎えていました。着物を一緒に選び、写真を一緒に撮りました。
母との思い出が蘇り、涙が溢れました。こんな頼りない娘でも安心してくれていたのだろうか。そう思うと、罪悪感で重くなっていた感情がわずかに軽くなる気がしました。その時に、初めてちゃんと泣いた気がします。
その後の納骨では母は「薬や病気で私の骨はボロボロ。」とよく言っていたのに、骨はとても良い形を保っていると言われました。さらに、お気に入りの着物のきれいな桜色が骨に移り、遺骨は薄い桃色になっていました。おしゃれで身支度をいつも整えていた母らしかったです。