1人で最期を迎えたおばあちゃん
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
私が25歳の時、半年程入院していた療養病棟で祖母は亡くなりました。
深夜1時、巡視に訪れた看護師により呼吸が止まっているのを発見され、そのまま死亡が確認されました。
東北の総人口300人あまりの小さな集落で、私は父方の祖父・祖母・父・母・兄姉と7人で暮していました。
祖父母は自宅敷地内の離れに住み、食事や入浴は共にしておりましたが基本的な生活の場は別であったと記憶しています。幼いながらも祖父母の母への当たりが厳しいことは認知しており、どうして母はいつも叱られるのと祖母に問うと「嫁だからだよ」と教えられました。
私の高校入学と同時期に祖父が亡くなり、以降祖母は離れに1人で過ごしておりました。1人になったからとて大人しくなるわけはなく、以前に増して母への欲求は強く、自身は友人と好き勝手にやるという印象でした。
そんな祖母も80歳を過ぎた頃から腰痛が強くなり、身の周りの事を行うのが精一杯な状況に。痛みや思うように動けないストレスは全て母に向けられ、それはもう地獄だった、と後々母に聞かされました。
当時都内病院の整形外科病棟に看護師として勤務していた私は、祖母の状況を聞いて「腰専門の医師に相談してみてはどうか」と、母に伝えました。勤めていた病院では、80代90代の方でも手術をすることは珍しくなく、症状が改善する方を何人も見ていたため“もしかしたら祖母の症状も改善されるかもしれない”と期待したためです。
早速祖母のかかりつけ医に相談したところ、自宅から車で1時間程かかる大きな病院を紹介され、そこからなんと、とんとん拍子に祖母の手術が決まりました。淡い期待が高齢術後のリスクよりも上回り、その後祖母は予定通り腰の手術を受けました。
手術自体は問題なく終わり、ホッとしたのも束の間。術次日よりせん妄状態となり、安静のはずの祖母は病棟を這い回りベッド上で体幹抑制・点滴の針も抜いてしまうため手にはミトンを付けられました。
大声で叫び、周りの患者の迷惑になるからと抗精神薬を点滴され、気づけば常にドロドロとした状態になっていました。危険予防と食事等の介助量が大きい故、家族の付き添いの必要性があると病院側から説明され、母は毎日1時間かけ病院へ通っていました。
1か月程経ち、術後の身体状況は落ち着いているため退院もしくは転院を、と病院から話された時、母は目の前が真っ暗になったと話していました。
運よく地元の総合病院の療養病棟への転院が決まり、日々のリハビリ成果もあり祖母は自力でベッドから起き上がりポータブルトイレへの移動まで出来るようになりました。ただ、認知の低下は著しく、その頃には母が来ても認識出来ず、穏やかではあるけれど会話はほぼ成立しなかったそうです。
午前11時に病院に面会に赴き、昼食の介助をして15時に帰宅する生活を2か月程続けた母は、病院側から自宅療養を勧められた際は、頑なに断りました。“家でこの人(祖母)の介護をしたら、私はきっと殺してしまう”と正直に病院に伝えたそうです。
一度私が帰省するタイミングに合わせて祖母の2泊3日の外泊にチャレンジをしたことがあります。その際、母はどうしても出来ない、と涙ながらに私に祖母のおむつ交換を頼みました。祖母は時折切れた糸が繋がるように私を認識し、困ったように笑って「ごめんなぁ。〇〇にこんな事させてぇ」と言いました。
私自身は仕事柄もあり、おむつ交換や食事介助等が苦ではありません。むしろずっと抱えていた“私が手術なんて言い出さなければこんな事にならなかったかもしれない。母に大きな負担をかけずに済んだかもしれない”という罪悪感を、介助して役に立てているような気がすることで紛らわせていました。
外泊後、暫く病院で平穏に過ごしておりましたが、尿路感染を機に状態が急激に悪くなりました。何時どうなるかわからないとの説明を受け、母は毎晩泊まり込みで付き添いをしました。
数日経ち、熱・炎症値も低下しやっとヤマを越して落ち着きましたね、と家族付き添いを解除した日の深夜、祖母は息を引き取りました。
前日まで付き添いをしていた母は、何故誰もいない時にと嘆いておりましたが、時間が経つにつれ「その時」を祖母が選んだんだな、と話すようになりました。発見時の祖母は、本当に穏やかに寝ているようだったそうです。