最期までかっこよかった私のばあちゃん
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
私の祖母は一言で言うと「元気ハツラツ!うるさいくらい元気が取り柄のばあちゃん!」でした。
何にでも興味のある人でしたが、趣味は日本舞踊と民謡で助教授の資格も持っています。私も祖母に連れられ幼少期から日本舞踊と民謡を習い、割烹や祭りで披露したことがあります。
それと統計調査の仕事に力を入れていて、定年退職後も仕事熱心で天皇陛下に表彰していただきました。
旅行も好きで、大好きで仲良しな祖父とよく旅行に出掛けていました。海外旅行にも何度か行き、金婚式には父の働くアメリカに行きカナダでナイアガラの滝を見て笑顔で写真をたくさん撮っていました。
そんな祖母が体に異変を感じたのは、どちらかというと肥満体質であった祖母が突然激痩せしたことです。祖母は「ダイエットに成功した♫」と喜んでいましたが、見ている家族からしたらその痩せ方は異様でした。次第に足腰にも痛みが出るようになり整形外科に行ったりしましたがよくなる気配はなく。
それから貧血で度々倒れるようになり、気がつけば食事を摂れなくなっていました。何か口に入れた瞬間に下痢をしてしまうのです。お腹が弱くなったかな?と思い、消化の良い料理を作ったのですが症状は一向によくならず、
さすがに病院で検査をしてもらったのですが異常は見つからないままでした。でも絶対にどこかおかしいから入院させてくれと医者に頼み込み、入院、検査した頃にはもう遅く末期癌、それも国指定の難病でした。
病気が発覚して余命を宣告されても祖母は気丈に振る舞い、今までと変わらない元気で陽気な姿を見せてくれました。家族が毎日面会に行き、会話をしました。大好きな祖父ももちろん自家用車で病院に通い、ほとんどの時間を一緒に過ごしました。
いろんな検査をしていろんな治療を試して、それでも良くなる気配はなくアミロイドーシスを併発してしまいました。手足がパンパンに浮腫み今にも破れてしまいそうで触るのが怖かったです。
家族がマッサージすると「気持ちがいい」と喜んでいました。炎症を起こし度々発熱しましたが「今日はこのご飯がおいしかった」「あの看護婦さんと仲良くなった」とプラス思考な祖母にこちらも勇気と笑顔をもらいました。
祖母の不調が続く日があり、そんな日は少し不機嫌になるときもありました。そして、私はそこで初めて祖母の涙を見ました。
今まで好きなものを食べて好きな所へ旅行に行き、友人や家族といろんなことをしてきた当たり前が当たり前でなくなったこと、周りの世話になっていること、もうすぐ自分は死んでしまうこと。悔しくて情けなくて泣いてしまったようです。
私は何も声をかけてあげることができませんでした。しばらくするとまたいつもの祖母に戻り、具合が悪いながらも気丈に振る舞っていました。この人は本当に強い人だと思いました。
次第に呼吸が弱くなり酸素マスクをつける機会が増えました。それでも祖母は笑顔です。ある日、母に祖母から電話がかかってきました。
「具合が悪いから早くきてくれ」これが最初で最後の祖母の弱音でした。その後、祖母は高熱を出し体力がなくなっていき酸素マスクがないと呼吸が弱くなりました。
私も毎日面会に行っていたのですが、風邪をひいてしまい祖母に移すと悪いと思い1日だけ行かなかった日がありました。翌日面会に行くと、祖母はもう会話ができなくなっていました。筋力が弱って自力で目を閉じることができなくなり、目薬をさして瞼を手で閉じてあげました。
そんな祖母に嬉しい話が舞い込んでいたのです。長年続けてきた仕事が国に認められ、秋の叙勲に選ばれ皇室にお呼ばれしたのです。
祖母は、「弱った姿を見せたくないから代わりにじいちゃん行ってきてくれ」と言ったのですが、祖父は恥ずかしいとのことで参加しませんでした。
祖母の状態を聞いた宮内庁の方がかけつけてくださり、祖母の亡くなる本当に直前に病院の個室でみんなに囲まれながら表彰式を行いました。記念のメダルを受け取る姿を写真に納めました。祖母は最期まで本当にかっこよかった!
そして海外赴任中だった父も、意識のあるうちに帰国することができ祖母を看取ることができました。
最期は胸に開けたカテーテルから感染症を引き起こしてしまい、敗血症で亡くなりました。病気が発覚してからわずか4ヶ月の出来事でした。
あっという間すぎて実感が湧かず、心にポカンと穴が空いた感じでした。