最初で最後の古希祝いと懐石料理
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
2007年の秋頃、母から連絡があり、主治医からの呼出で、近くに住んでいる御家族の方へ父の病状と今後の治療方針についての説明があると聞き、母・姉と3人で、約束の時間に主治医とお会いしました。
現在【肝臓】は重篤な状況で、これ迄の延命治療は、今後はできない事。胃に【癌】が見つかっていますが、その手術に耐えるだけの体力は無いと判断しており、その治療を施しても、お父さんの肝臓は保たないとの説明でした。
お父さんは来春の『桜』は見れないと思いますので、食べたいと言う物は何でも食べさせて、また、旅行に行きたいと言うならば、出来るだけ希望を叶えてあげて下さいとのお話でした。
遡ること2008年3月のとある朝、父が見を覚ますと、あまり弱音を吐かない父が母に『体調が悪い』と言ったそうです。
『全身黄疸』が出ている父の顔色を見た母は、急いで身支度を整え、タクシーを呼び、独立行政法人国立病院機構長崎医療センターに連れて行きました。
外来の看護師長が父の『病変』に、○○さんどうしたの〜と、慌てて病棟に連絡して、その後、緊急入院となりました。
連絡を受けた私は、仕事終わりに病院に向かい、病室に入ると四人部屋の左手前のベットの上に座っている父の顔を見ると直ぐに黄疸が出ていることに気付く程、全身真黄色でした。
その日以降は、時間の許す限りお見舞いに行き、週末は朝から夕方まで病室に詰めていました。
ある日の夕食のメニューで『大きなミートボール』が出て、食べにくそうだったので、小さく一口大にすると、父から親子であっても、誰かの手を借りてまで【飯】は食べたくないと、叱られたことを今でも覚えています。
その数日後から意識が無くなり、2〜3日は寝たきり状態になっていました。
4月に入り、意識ははっきりしていて、会話も出来ていましたし、食事も自分で食べていました。その後、2週間を過ぎようとした日から『食べる量』が減り、ベットに寝る時間も長くなっていました。それから亡くなる2〜3日は意識もなく、寝たきりの状態でした。
2008年4月26日、別れは突然やって来ました。
その日は、母・叔母・従兄・姉・弟家族、私の家族と朝から父のお見舞いに来ており、正午を知らせる音楽が流れたので、病院内の食堂に行こうとした、12時05分、大きく深呼吸をしたあと、息を引き取りました。