『おとうさん会えたかな。お母さんに・・・』
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
2021年10月に義父を亡くしました。
朝、入所していた施設からの一本の電話。義父は、施設の自分の部屋で一人旅立っていました。「老衰」でした。
義父は、18年前に義母が他界し、以降10年余、自宅で独り暮らしをしていました。10年ほど前から認知症を患い、その後、自宅で倒れ救急搬送。その後は有料老人ホームに入所し5年近くを過ごしました。
認知症もみるみる進行し、面会に行っても息子のことも、可愛がってくれていた孫のことも認識できなくなり、歩行もままならなくなっていきました。
そうしているうちに『新型コロナウイルス』の流行もあり、面会も出来なくなり、義父の様子は、毎月届く施設からのお便りと職員の方からお電話で状況を聞くだけになりました。
面会ができない日々が過ぎていき...... 2021年4月施設でけいれんを起こし救急搬送され、その際、意識はなく血圧もどんどん下がっていきました。「朝までもつかどうか・・・」との診断でした。
元気な時、「万が一の時は、延命治療はしない」と言っていた義父本人の意向もありましたので、息子である主人は、「痛みのないお薬などの治療だけはしてください」とお願いをしました。
出来ることなら「可能な限りの治療をしてください」とお願いしたかったのですが、義父本人の意思を大切にした苦渋の決断でした。
翌日、お見舞いに行ってみると点滴治療が効果を成し、少し持ち直していました。そして、医師からの説明で誤嚥性肺炎を防ぐためにも、「胃ろう」をすすめられました。
しかし、徐々に回復していき胃ろうはつくらず退院に至り、また施設に戻ることができました。この時、『義父の強さ、生命力』を感じたことをよく覚えています。
ほっとしたのも束の間。また、一月ほどすぎたある日、「また、様子がおかしい」との連絡が入り救急搬送されました。すぐに駆けつける事が出来るのは、私ひとりで心細い思いで病院へと向かいました。
意識はあり、車椅子に乗っていました。しかし、義父に声を掛けても、やはり私のことは分からず・・・。
付き添ってくださっていた施設の方も、お忙しいようで施設に戻るとの事でしたが、私のことを認識できていない義父を、私ひとりですべてに付き添える自信は全くありませんでした。
情けない話ですが、義父にどう接していいか自信もなく施設の方に無理を言って残っていただきました。
医師からは、「高齢でもあり、できる治療はない」とのことでした。冷たさを感じてしまいました。
しかし、しばらく入院したのち、なんとか退院できまた施設へ戻ることとなりました。
三ヶ月ほど過ぎた9月。状態が悪くなっていますが、どうしますか?」と施設のクリニックの医師から連絡が入りました。施設からの連絡はいつも嫁である私に一番に入るため、救急搬送」をお願いしました。
主人とともに病院に駆けつけると目に入ってきたのは、意識のない義父。「大変、危険な状態」「胃ろうを作らなければ難しいと前回伝えたはず」と強い口調で医師から宣告を受けました。「それは違う...そうは言われていない...」と心の中で強い反発心がありました。
確かに、春に一度「胃ろう」の話が出たのは事実で記憶していましたが、「意識も戻り食事も摂れるようになったので、今回は胃ろうまで作らなくても...」と同じ医師からの説明があったからでした。
しかし、義父は、延命治療はしないとの意思だったこともあり、「胃ろうまでは作らない」とその時、はっきり伝えました。それでも義父の強さで意識を回復し何とか施設に戻れるまでなりましたが、その後は、寝たきりとなり数日を過ごしました。
クリニックの医師からの連絡が時々入り...「あと数日かもしれない」とのことでした。きっとまた持ち直してくれると信じていたので、耳を疑いました。
その数日後の朝、主人が出張先へと新幹線で向かっている時に電話が鳴り、「朝、ベッドで亡くなっていた」との施設からの連絡でした。
一人で旅立ってしまいました。