『おかあさんありがとう。そしてごめんね』
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
18年前の六月末、「くも膜下出血」で義母を亡くしました。
何年も患ってきた脳動脈瘤の手術治療のため、手術日も決まり早めの入院をしていました。しかし、当初、予定していた手術日はどんどん延期になっていきます。
そんな中、学校から帰宅した娘たちと、夕方に病院へお見舞いにいきました。金曜日の夕方ということもあり、同じ病室の方たちも許可が出た方は、外泊をされていた方が多く、寂しい病室でした。
いつもはわがままを言ったりしない穏やかな義母でしたが、後になって思うとその日は違っていました。
突然「自分も家に帰りたい」と言い出し、子供のようにわがままをぶつけてきました。「看護師さんに聞いてみるね」と言い、私はナースステーションに行きましたが、夕方の引継ぎをされていましたので、「もう少ししてから、また聞きに行ってくるね」と伝えました。
でも義母はそれを待てずに、自らナースステーションへと向かいました。普段、そのようなことをする義母ではなかったので、驚いたことを覚えています。
その後、看護師さんが主治医に連絡を取ってくださり、一泊だけというお許しが出て、帰るために洋服に着替える義母は、それはそれは嬉しそうでした。そして実家へと向かう帰りの車中では、孫たちと嬉しそうに話していました。
家に帰りつくと、玄関で家の中の義父に「もう帰っていいよと言われたから、帰ってきたよ」と子供のように嬉しそうに話す義母。そして、突然帰ってきた義母を見て、普段無口な義父が驚きながらも、にこやかに微笑んでいた光景が今でも鮮明に思い出されます。
私たちは、送り届けほっとし、車で3分ほどの近所の自宅へと帰りました。義母は、その夜は、仲良しの親戚などあちこちに電話をしていたようです。
その翌朝の早い時間、まだ休んでいるところに、両親と同居していた義理の弟から電話が鳴りました。「おふくろがおかしい…救急車を呼んだから来て」との事でした。驚きすぎて、心臓がバクバク大きな音をたてながら、なりふり構わず急いで、主人と駆け付けました。
義母は布団の上で、大きな唸るようないびきをかいていて、何回声をかけても目を開けてくれません。間もなく、救急車が到着し入院していた病院へと搬送されました。
検査の結果、「脳動脈瘤が破裂してくも膜下出血をおこしている」との説明があり、『非常に厳しい状況であること』、『常に家族は病院で待機していてください』との宣告をされました。
その日から昼夜関係なく、家族、親戚含め、交代で病院にある家族の控室に待機し泊まり込みをしました。
私は、まだ娘たちが小学生だったため、日中しか行けませんでしたが、朝は、娘たちが登校した後に、泊まり込んでくれている家族、親戚に簡単な食事を準備して、朝早くから病院へ向かう日々でした。
控室でも病院の内線電話が鳴るたび、震えが止まりませんでした。夕方になると、私は気になりながらも娘たちの帰宅に間に合うよう自宅に帰りました。
特に夜になると、心配と恐怖が襲ってきてどきどきして眠れない日々が続き、いたたまれず、かかりつけのクリニックへ行き、事情を話し気持ちを落ち着かせるお薬を頂いて過ごした日々でした。
救急ICUで治療を受ける義母の様子はよくなることはなく、毎回、ドキドキしながらの面会......と言っても頻繁には面会は出来ません。何度、声をかけても、手や足をさすっても目を開けてくれませんでした。
ただ、目をあけてくれない義母に、声を掛け続けると涙をこぼしたこともありました。聞こえているのに......と。
絶対に起きてくれると信じていました。でも、搬送から3日目の午後、控室で待機していると内線電話が鳴り、「血圧が下がってきた」との連絡。急いでICUへと駆け付けましたが、血圧はみるみるうちに下がっていき、心拍数も下がっていきました。
脳死状態だった義母は本人の誕生日に旅立ってしまいました。