辛さと成長
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
私が20代でもっとも関係性の薄い他人でありながらもっとも近い他人と言える義父の看取りを経験しました。
約30年前に結婚を機に義父との同居が始まりました。夫は高校生の時に母を失くしておりその後は姉も既に嫁いでいたため親子2人で暮らしており、不安ではありましたが同居する事にしました。
しばらくは私も仕事をしながら家事をし、義父も夜勤の仕事を週に2~3日しておりました。
義父は糖尿病の持病を持っており月に一度程度病院に通っていました。はじめの一年くらいは何事もなく過ぎていった印象ですが、私が専業主婦となり、家事全般をし始めたころから義父の様子がおかしくなり始めました。
いろいろと忘れがちになり、食事をとったかどうかも忘れがちになりました。認知症でした。アルツハイマー型認知症と診断されました。
当時の義父は60歳になったばかりだったと思います。いわゆるまだらに忘れるのでしっかりしている時もあればずっとぼんやりとしているような時もありました。
ある日せきがなかなか止まらず病院に行ったところ検査入院するようにと言われて約1か月ほど入院しました。検査結果は肺がんでした。
何か所かに癌があり、大きくはないけれど手術で対応するのは難しい状態のようでした。持病もあったので放射線治療で様子をみることにしました。その後はあまり進行せずに落ち着いて安心しました。
ただ、認知症に進行は止められませんでした。当時はお薬もなくその都度対処するしかありませんでした。
物事を忘れることは私が把握すればいい事でしたが、だんだんと下の処理が自分ではうまく出来なくなっていきました。
やむなくオムツを使用しましたが、亡くなる1年くらい前からオムツが何なのかさえわからないような状況で大きいほうの汚物を取り出してみたりするようになりました。この時期が一番大変だったと記憶しています。
同じ頃に長男が1歳を過ぎた頃で2人ともオムツをしているような時期でした。毎日が夢中で必死だったような気がします。
夫も協力的でお風呂は夫がサポートしてくれてだいぶ助かりました。でも、働き盛りで大変忙しく夫に頼ってばかりもいられませんでした。
そんななか糖尿病も悪化し始め腎臓の状態が悪くなり透析を行わなければならないといわれ入院する事になりました。
人工透析をする準備は前もってしていたのですが、透析による食事制限や週に1~2回の病院通いを覚悟しなければならず私もいっぱいいっぱいな状態だったと思います。
数日入院しはじめて病院で義父をみてくれて私は少し楽だったのかもしれません。病院の方たちは大変だったろうと思いますが、義父は性格が穏やかな人だったので言葉で傷つけるようなことはありませんでした。
入院して1週間しないうちに病院からの連絡で至急来てほしいと言われました。透析中に心肺停止状態になったというのです。
夫と共に駆けつけると人工マスクをして寝ていました。お医者様にあわせたい人に連絡をするように言われました。入院の予定だったのにどうしてと思いました。
夫はすぐに姉に連絡をしました。その他の親戚にも連絡をし、来てもらえる人にはすぐに来てもらいました。
義父の意識も回復していたので親戚とは少し話もできたと記憶しています。姉は遠隔地に暮らしていましたので病院へ到着したのは次の日だったと思います。
危篤と言われてから丸2日間がんばってくれました。
亡くなる前の半年くらいは私自身も精神的に辛くて大変でしたが、義父とのかかわりはその後の私の人生にとても影響を与えて良くも悪くも人は亡くなっていくし、周りの人たちができることはあまりないという事、自分が後悔しないように対峙しなければいけないと思いました。
その後も私は何人かの身内の最後に立ち合いましたがやっぱり義父を見送った時が一番印象深く悲しくて何もできなかったと思い返してしまいます。