おじいちゃん、今でもずっと大好きだよ
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
祖父が亡くなった日のことは今でもよく覚えている。その日はとてもよく晴れた、8月13日のことだった。
朝に病院から電話があり、祖父の尿が出ないという電話ですぐに病院に来て欲しいとのことだった。私と両親と妹と祖母はすぐ病院に駆けつけた。
祖父が倒れたのは12月12日。私がなぜこの日を覚えているかというと、センター試験を受けるための決起集会があったからだ。12が並ぶから縁起がいいと言うことで学校側が設定した日だった。
学校が終わり家に帰るといつもと様子が全く違っていた。普段はついているはずの電気が全くついていなく家の中は暗かった。そして、誰もいなかった。「これは何か起こったに違いない」とすぐさま思った。
12月は祖父が毎年年賀状を筆で書く時期だった。何気に祖父がいつも年賀状を書いている場所に行った。年賀状は散乱し、書きかけのものもあったので、すぐさま私は祖父に何かあったと思いながら、散らばった年賀状をかき集め、ひとまとめにして片付けていたが、何故か涙が出てきて止まらなかった。
そうこうしているうちに、妹が帰宅してきたが、妹が心配しないように私は気丈に振舞った。私が簡単なご飯を用意して食べていると近所に住んでいる親戚の伯母が駆けつけてくれて家のことを色々としてくれて、とても助かった。
他の親戚から伯母の携帯に電話があり、叔母は祖父が倒れたことと危篤状態であることを電話で伝えていた。危篤状態という言葉に私はとても動揺した。
しばらくすると祖父が落ち着いたのか両親と祖母が帰宅してきた。祖父の病名を脳梗塞と教えてくれ、2、3日は予断を許さない状況だと説明してくれた。
それから月日は流れ、私は大学に合格し実家を離れることになった。GWなどには実家に帰省し祖父の様子を見に行った。祖父はただ寝ているだけだったが私は一方的に話しかけていた。
夏休みにも帰省し時間が許す限り祖父の元へお見舞いに行った。祖父は高校野球が好きだったのでテレビで高校野球をつけて「今○○高校が勝ってるよ」などと話しかけていた。
この時は祖父の状態は落ち着いていたのでまさか夏のうちに亡くなるとは思わなかった。
そんなある日、病院から電話があったので、すぐ駆けつけたが祖父の状態は何とか保ってる様子だった。私はこのままの状態を保って何とかなるのではないかと思っていたので、お昼になりご飯を外で食べた。それくらい余裕があった。
待合室で過ごしていたら夕方頃に待合室に看護師さんが、祖父が危ないかもしれないと呼びに来た。でも、まだ状態は保っていた。
夜になり状況が一変した。祖父がいよいよ危なくなった。その時に1番印象に残っているのは祖母の気丈な姿だった。
私は祖父が亡くなることが悲しくて泣きじゃくっていた。そんな私に「そんなに泣かないの!」と祖母はしきりに言っていた。祖母は祖父が亡くなっても一度も涙を見せなかった。
祖母は祖父が倒れてから毎日バスで病院に通っていた。病院まではバスで40分ほどかかっていたが一日も欠かすことなく病院に通っていた。
今となって思えば祖母は毎日病院に通う間に祖父が亡くなることの覚悟をしていたのかもしれないと思った。祖父が亡くなったことが告げられたときも祖母は泣くことはなくお世話になった医者や看護師にお礼を言っていた。
葬儀会社に手配をし、祖父を自宅まで連れ帰るときも祖母の涙は見ていない。
通夜のときも葬儀のときも祖母は涙を見せず気丈に振舞っていた。もちろん喪主は祖母だった。
祖父母は金婚式を迎えるほど結婚して長く続いていた。だから、お互いのことをよく理解していたのかもしれない。
なので、祖母は祖父が亡くなったときも気丈に振舞っていたのかもしれないと思う。ただ今思えば1人で部屋にいるときなど涙を流すことはあったのかもしれないとは思う。
私は祖父が亡くなることに対しての覚悟を決め、涙を一つも周りに見せなかった祖母を現在は正直すごいと思っている。
亡くなった当初は自分の夫が亡くなるのに泣かないなんて祖母は冷たい人だとは思っていた。しかし、私も歳を重ねるごとに祖母のそのときの行動が少しわかる気がしてきた。