18年間ありがとう。高校卒業2日後の別れの体験談。
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
わたしが母を看取ったのは、高校を卒業したばかりの18歳のときでした。
母は乳がんでした。乳がんそのものは初期の初期という段階だったのですが、数年を経て肺、骨、脳などに転移し、48歳で亡くなりました。
12月にめまいで倒れ、ろれつが回らなくなっていたにも関わらず、「診察予約の日まで待つ。」といい、横になりながら家で診察の日を待ちました。
そして予約の日の当日を迎え、そのまま入院になりました。まだ食事も水分もとれていて、多少ろれつが回らないこともありましたが、会話も出来ていましたし、調子がいい日は、屋上に風にあたりにいったりもしました。
一度だけ、わたしのことがわからなくなった日があり「うちの娘によく似ている...」と、じーっとわたしを見ていました。体位を変えていたので看護師さんと間違えたのかもしれません。この日だけわたしがわからず、翌日にはいつも通りの母でした。
お正月に母の実家である祖父母の家に一時帰宅をしましたが、亡くなるまで、自宅に戻ることはありませんでした。
そのときもすでに車いすに乗っての移動で、導尿カテーテルを入れていたりと医療的ケアも必要でした。
当時私は、高校卒業間近だったこともあり、授業はほとんどなかったので、病院に泊まる日が多くなりました。
腹水がたまってしまい、呼吸がしづらくなっていたことも影響してあまり眠ることもできずにいたので、「ゆっくり呼吸してみよう。すってー はいてー 」と夜中に声をかけたりして過ごしていました。
制服を着たわたしが病院へ行くと目に留まるようで、他の患者さんやお見舞いの方から声をかけてもらったり、おやつをもらっていました。
母と最期に話したのは、わたしの高校卒業式の日でした。卒業式後に病院に行き、すでに寝たきりになってしまっていた母に卒業証書を渡しました。
看護師さんが、「わかっているかな?」と言ったので、「わかってるよねー。」と母に話しかけるとこちらを向いて、「なにが?」というので「わたしが卒業したの、わかってるよね。」と聞くと「うん。」と頷いて、制服の胸についた花飾りを見ていました。
これが、母とわたしが交わした最期の会話でした。その日から2日後の夜中に母は亡くなりました。
病院に泊まるのは主にわたしで、親戚が泊まることもありましたが、お見舞いにはいくものの、父は決して泊まりませんでした。
亡くなった日の昼にもわたしは母の病院にいたのですが、薬で朦朧としているなかでも、何となく父に会いたがっている気がしたので、その日は帰宅後に「今日はお父さんが病院に泊まって。」と頼みました。泊りにはいきたくない様子でしたが、夜、父は病院に泊まりにいきました。
父は、「自分が泊まりにいくのを待っている気がして、行ったら逝ってしまう気がしていた。」と話していました。まさにその通りで、夜テレビをみていたときに母の好きな歌が流れたので、イヤホンを母にもつけてあげたそうです。
父を見て、何か言いたそうにしてそのままアラームが鳴り始めたそうです。父の予感は当たっていました。夜中に父から電話があり、妹とタクシーで病院に向かい、叔母家族と祖父母に見守られながら、母は静かに息を引きとりました。
周りで逝かないでという大人をみながら、わたしは「おつかれさまでした。きつかったね。」と逝かないでほしいという気持ちもありながら、やっと母は楽になれるのだと、どことなく、ほっとした気持ちで見送りました。
乳がんと診断されてから4年半ぐらいのことでした。
入院から亡くなるまで3か月ほどでしたが、この3か月が長かったようなあっという間に過ぎていったようなどちらとも言える感覚でした。
腹水がたまり、全体的にむくんでいたために、やせ細っていくこともなくお化粧もしてもらった母は、眠っているようでした。そんな姿は、苦しかった日々よりも、点滴などもとれて解放されたような穏やかな顔にみえました。