祖母に感謝を込めて
どんな看取りだったかお聞かせ頂けないでしょうか
「ばあちゃんあと1週間だから会いに来て」とクリスマスが近い年末に母から電話がありました。
私は実家から離れて暮らし仕事もしていたので、有給を使い、休みを取って会いに行きました。会いに行く前、私はかなり緊張していました。不安な気持ちを顔に出さないように病室に入ると、おばあちゃんは笑顔で笑ってくれました。
人工透析もして身体全体が管だらけのおばあちゃん、息をするのも辛そうで話すことすらできないのに、私に笑顔で対応してくれて今にも涙がこぼれそうでした。
母親には「ばあちゃんが頑張っているのに、あんたが辛い顔してどうするの。笑顔で見送って送り出しなさい。」と言われ作り笑顔をしていました。
お医者さんからあと1週間と言われていましたが、大晦日を迎え家族全員でおばあちゃんとお正月を過ごすことが出来ました。
もちろんお節は食べることが出来ず、食事も流動食でほとんど食べられない。何かしてあげられることはないのかなと思い、おばあちゃんはカラオケが大好きだったので、よく歌っていた美空ひばりさんの曲を病室で流してあげました。
歌うことはできなかったけど、耳で聞いてわかっていたようで「あ~あ~」と言いながら声を出していました。
私も自分の生活があるため、お正月休みの後おばあちゃんに会いに行くのは1週間に一回になっていました。普段生活している中での1週間とおばあちゃんと過ごした1週間の重みは雲泥の差があり貴重な時間でした。
おばあちゃん本人はどのように思いながら病室で過ごしていたかはわかりませんが、私自身は仕事をしながら、あと1週間、また1週間と長生きしてほしいと願いながら毎日考えていました。
お正月休みも終わり、1月の3週目に会いに行ったときには病状はかなり進んでいました。
会いに行って声をかけてもほとんど反応してくれず、呼吸も苦しそうな状態。そしておばあちゃん自身が食事を拒否したと言うのです。
流動食ですから無理矢理口に入れようと思えば出来ると思うのですが、口をかたく閉じゆっくりと首を振って拒否をするようになったのです。
見ていて思ったのですが、呼吸をすることだけでも疲れてしまっているようでした。この苦しい状況から早く解放されたいのかなと思うほど見ていて辛かったです。
お医者さんにも相談し、父と母もこのまま静かに眠らせてあげようと決めて、おばあちゃんの好きな歌「川の流れのように」を毎日かけてあげました。心地よい眠りで1月末、83 歳で永眠いたしました。